テキスト縦書き
私は、人間社会の辺境部、野と人間社会の境界あたり、
両世界の定かではない扉の前に、はいつくばる者です。
野から大風が吹き付ければ、真っ先に吹き飛ばされる、輩です。
今、前方に広がる野を語ることで、自分の置かれた心もとない状況よりも、目玉の裏方に息をひそめる世界について、考えたかったのです。
私たちは、一生命として、所属する社会、国家の一員として、野を宿しています。
むしろ、目を閉じて、様々な深度で野と向き合わなければならないわけです。
野の広がりをあなどれば、裏山のヤブに迷い、すぐそこにあるはずの我が家に戻ることもできなくなります。
みだりに、ヤブをつつく者もおり、注意が必要です。
(2014/03/20)
根拠のわからぬ数字から汲み取れるものはわずかです。
そのかわり、漠とした景色やら、人々のざわめき、つぶやきなどから、世界の姿を妄想します。
妄想が連なり、伝わり、こだますることがあれば、後に、奏でるものを待つこともできます。
目を閉じ聞き入り音色に合わせ、踊り出すかもしれません。
ちっぽけな剪定作業、草管理が連なって、絵巻物ができ上がり、
人々は見渡す景色に安堵を共有してきました。
訳あって引かれた曲線の見事さ、地表をなぞる幾筋もの曲線は、互いにうなずき合います。
この地に生きる人々が、風土に聞き耳をたて描き切った線だからです。
起伏にそい、風景に溶け込むように、目立たず気付かれぬものも多いです。
ためらわず、真っ直ぐに引かれた曲線は、村の輪郭を示し、村内部の実相を映し出し、来歴を語ります。
つまり、村の正体一切を記しているのです。
保守管理を担うのは、村人です。当事者として、あるいはボランティアで引き受けてきたのです。あげつらえば、とてつもない行程が用意されたものですが、
おのおの相応の持ち場を受け持ち、私もささやかな貢献に精を出しています。
国家は、こうして村々の片隅から、この国の風景は、細々としてとらえどころのない曲線で編み出され、日々つくろわれています。
普通の村人の手により、国家はようやくその実態を与えられたのです。
私が思うに、国体とは、まさしくこのもののことです。
国体は、人びとが、多様な風土に従う作法をもって、世界に寄宿する姿のことです。
では、人々に落ち度がなく、作法が守られたとしたら、国体の成果は保証されるのでしょうか? 世界は、私たちにとり特別な1日1分1秒を淡々と生み出します。
エネルギーは、世界を縦横に横切り、流転し、地の底から湧き出し、彼方から吹き込まれ、という風に、様々な姿で、どこからでも押し寄せます。
衝突、加速、渦巻きを引き起こします。
隆起、沈降、噴出、崩壊も、流れの過程です。
宇宙も地球も、海も大気も、欲望し、動きを止めない。
そんななかで、人間は生活しているのです。
波乱も風土のうち、宿命と言えます。
ところが、都市に暮らし、多くのものが、人間の欲望が引く直線で構成され表現される景色の中で、人々は、いつしか錯覚に陥り、世界に囲まれ、浮島のような都市を、過大評価しているようです。
都市は、取り巻く世界の広さをいつでも実感できる大きさであったらよいのですが、膨張は続き、外部環境からの警告も、ますます届きづらくなっています。人々は目の前の同類達にも無関心で、ディスプレイに熱中しています。
国家、社会にも、一個人と同じように、身体と心があります。
国の体、国体は、先に述べましたが、国の心はといえば、国家の成員、国民一人一人の心の中にあるままで、十人十色、方向性もバラバラです。
かろうじて、憲法及び事細かな法制度で、国民の一体感を表現しようと試みられます。国柄を、法制の独自性で表現し、保守しようとしています。歴史、風土に根ざす法体系が国の心のプロフィールと言えます。現に、国家は法制によって人々の活動に枠を設け制限し、場合によっては禁止します。
たとえば、営利活動よりも大切なものがあると、人びとに警告してきました。
大切なものとは、倫理、道徳、美意識に照らし、守るべき価値ありと判断されたもののことです。
倫理や美意識は、人の心の中のものです。教育をほどこされ、生活の中で日常生活の中得られる情報から、形作られます。
世界と接する中で、結晶化せる感覚であるならば、人々を取り囲む景色は、かけがえのない教室と思えてきます。
あたりを見回せば、荒れ模様。新自由主義とやらがもてはやされています。自由を振りかざされ、私たちは、自分たちの領域にたてこもり、思い出を大切にだきしめることで、しのぎきれるでしょうか。脱落を余儀なくされるものもあり、小さなシステムを守るのも大変です。
自由貿易は、倫理とか伝統、文化を守る法制度を乗りこえようとします。規制に悪名をきせ、経済発展、投資拡大のさまたげを取り払い、もうけ話の邪魔を許しません。
規制は、社会が保持してきた、さまざまな世界観、守らねば失われかねぬ、社会のアイデンティティーに関わっています。
新自由主義者は、国家のアイデンティティーを骨抜きにします。
国家は、世界経済に身を投げ、のみこまれ、地上から消えてゆくかと思えば、かえって、根拠を失ったナショナリズムに固執するのです。
空ろな題目を繰り返しながら、どこへ向かうのでしょう。
新自由主義者は、姿をくらまし身をひそめます。ナショナリズムは個人の自由を嫌うからです。
かつて、明治維新に伴う秩序、枠組みの破壊は、この国を極端な国家主義へと向かわせました。
今、新自由主義は、人心の拠り所を破壊し、人々の心を国家へと誘う先棒担ぎをしているのです。
国家が、国家主義におちいり、開き直れば、堕落は底なしになります。愚かさを偽装し、維新ゆえに国体をほしいままにできると思いこむようになります。
カルト国家の出来上がりです。
都市から遠く離れた周縁部で進行する、退廃と退却の動きが反転し、都市からのあらゆる種類、相当規模の移転が起こり、村々が活気を取り戻し、ここで瑞々しい感覚が、世界と接する変哲もない当たり前を望めないならば・・・
「あとは野となり山となり」この国の命運も尽きます。
国は、争って守れるものでも、景気が作り上げるものでもありません。
近頃、国の財産目録作りが進んでいます。
遺言は誰のために遺されるのでしょう。
並行して、歴史は、書き換えられ、糊塗隠ぺいが横行し、うわべをとりつくろいます。
疑うことを許さぬ前進は、善きものを道連れに断崖へと急ぎます。
その縁に遺言状は置かれます。
願わくば、よきものをかくまい、養生させ、未来へと送り届けたいものです。
追っ手をかわす小道は、やがて、張り巡らされた網となり、時空をこえる迷路は強度を増し、岩盤となります。
トップダウンで打ち下ろされるドリルを受け流し、再生の糸口、まだ癒えぬ傷口も守りたいのです。
景色の片隅で、つくろい続ける人がいて、その周りで、少なからぬ人々が、試行錯誤を始めているのだと思います。
人は、国家のために生きるのではありません。世界と関わり生活する結果として国体を作るのです。
いかがわしい国家にあって、国体はただ経済活動の場だと思われています。国体を自分たちの領分、縄張りとしか考えません。
日本国が、福島原発事故を起こし、国体をひどく傷つけても、原発を止めることができず、原発を商うさもしさは、このようなことなのでしょう。
心と体が、不可分なのは、国に関しても同じです。
国体が病み傷ついた今、心も同様です。
法、憲法とて、病人にふさわしいものへと改変されるかもしれません。
人々が、普通に思い、感じることが言葉にされないと、つまらぬ言葉や作文に言い負かされ、言いくるめられてしまいます。
すでにある立派な知恵が、いつまでたっても、中身のない言葉に抗えない歯がゆさをずっと感じてきました。
定点観測しながら、せめて見えるものを整理しようとしてきたのですが、近ごろでは、定点に立ち続けるのも楽なことではありません。
地べただけ見ておればよいものを、と言われますが、遠くをみるのも百姓の仕事のうちです。
人里の風景は、人々が感じ、考えたことを、起伏の上に刻み続けた知恵の結晶です。
忍苦よりも、あこがれが成し遂げた仕事です。
世界に寄り添い、愛し愛されたいという欲望のなせる技です。人は、世界の外部でも中心にでもなく、その中に混じり合う一要素です。
私たちは、ハチがあこがれ飛び立つように、クワを振るい、種を播くのです。
心のままに欲し、挑むことが許された世界で、自生する草木に並び、今を甘んじて生きることができるはずです。