2011年3月11日から、9年の歳月が流れました。今また、別種の大災害が、この星で生活する人々を伝わり拡散しています。音もなく忍び寄り、入り込み、移動伝染手段として、人間が利用されてしまうのですが、コロナウィルス禍とは、裏を返せば、人間の社会活動・生命活動にまるきり依存する自然災害です。
もう一度、3・11が教えてくれたことを振り返ってみたいです。人間は猛威を振るう災害の訪れを前にして、ほとんど無力と思います。戦う、封じ込めるなどと、相手と対等のような錯覚は、捨てるべきです。昨日までの社会機構は、新しい事態への対応能力を欠いています。国家などが打ち出す対応策は、次第に人災の様相を呈し始め、最悪の災害へと人々を連れていくのではないかと危惧します。
ではどう考えるのか? 私は、「津波てんでんこ」のことを思い出します。古よりの教えは、災害が起きたら、なるだけ早く、自分一個の生命スイッチ以外のほかのスイッチは全て切れ、という厳しいものです。自立した動き、依存を排す行動には、日頃から準備心づもりが不可欠ですが、もしも万が一にも、あなたの”てんでんこ”を許さない社会に組み込まれていると思い始めたら、一刻も早く「ずらがる」ことをおすすめします。(手遅れでないことを祈ります)
もう一つ、てんでんこがうまくできなかった場合、つまり感染した時のことです。8年前に紹介したことのある、野口晴哉著「風邪の効用」は、なにがしかのヒントを与えてくれるのではないかと思います。古来の知恵による、風邪の受容と経過法の教えです。ヒト個人のみならず、集団、種の構成員全員に関しても、同様の考えからが当たるのかな、と思います。敵対的対処ではなく、ため込まず、滞り(居すわり)のない、よりスムーズな経過(立ち去ること)を心がけるのです。各々いっそう、自分の心身の動きに耳を傾け、受け流すことに集中しなさい、ということだと思っています。
ただし、以上のようなことを実行できたとしても、当然ながら、私にも、誰にも、安全の保証といったものは与えられません。もしも、生き延びた人々が集い語り合う日が訪れたなら、新しい社会つくりも始まります。必ず、そうあってほしい、コロナ禍を遠く見送った未来の話ですよ。もしもを想いながら、野の扉が、何かのお役に立て足らいいなと思うこの頃です。
(2020年3月23日記 「菜園たより」2020年3月4週号より)