「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。」(田中 正造)
3・11のあと、この文章に触れ、感銘を受けました。しかし、ほどなくかつてを取り戻す世界にあって、なぜ、文明国と目されるこの国で、文明に反する行いが続いているのか考えました。そして、社会は、人々は、重大な失念、勘違いを起こしているのではないか。あらゆる生命個体にとっては、当たり前の生への執着も、ひとたび社会常識、共通理念となれば、看過できぬ踏み外しにつながるのではないか、と思えてきたのです。
「真の文明は、生を煽らず、生に溺れず。生死を合わせ、命と名付け、理解する」
誰もが、死をまぬがれることができないと知っている。感染症による死が忍び寄る。生を考え、死を考える時が来た。
人間の上に鳴りひびく、真実の沙汰。命のまっとうを願うが、死と争うことなどできない。
死はいつでも理不尽だ。その理不尽を許さず、生の欲望のまま、不死に熱中し、成果を得たかもしれぬが、それこそが新たな生成を挫く力ともなった。
誰でも知っている。限られた世界の中で、つり合いは絶対的に必要だから。不死により保たれた生は、不生成を暗黙のうちに求める。
自然に抗う不死の願いは、残念ながら、世界からの収奪によってその活力を得てきた。人類の繁栄(その内実は、格差社会)が、際限なく他の多くの犠牲を求めるならば、その未来に待つものは予想がつく。
こんな観点から、私たちの国家・政治をながめてみよう。
政治はデクノボーのようであってほしい。
大言壮語、強権発動とは、無縁の政治。
巨体ゆえ、津々浦々のことが分からず、森羅万象の痛みを感じることはない。
マスクがないぞ、川があふれそうだ、山火事だ、そんな声を耳にすれば、おろおろ東奔西走、それが限界なのだろう。
人々は、日常、デクノボーなどあてにしない。
ただ、SOS、自分たちではどうにもできない災害時に、叫び声をあげる。
こんな時、デクノボーだって、何かの役に立ってくれるかもしれない。
現在あるデクノボー国家も、最後の力をふりしぼり、己の延命、「V字回復」を犠牲にしても、人々を送り出し、新しい社会を立ち上げる礎となることはできよう。
倒れゆくデクノボー、その消滅の道すがら、目を見張るような社会が立ち現れるかもしれない。
おぼろとなる記憶、ふとよみがえる思い。
「そうだった。私はそんなふうになりたかった」
自然災害が起これば、てんでんこで生き延びた人々が求めあい、新たな社会を作る。
社会の成員はみな、己の出自を胸に刻み、自分たちの社会の生みの親は、人間を取り巻く大世界のことだと思い出さなければならない。
今、人々は、コロナ禍の中にあって、いかに己が社会、国家に組み込まれ、依存していたかを思い知った。
それと同時に、大世界の猛威の前に、国家、社会の無力さを思い出している。
あちこちから、蔓延を防ぐために、行動の変容を起こそう、という声が上がっている。だが実際に求められているのは、もっと根底的な変容。生活、社会そのものの変容のことだ。
グレタさんの主張を思い起こしてみよう。そうして多くの科学者たちが指摘する、世界の変容、生命界の変容に目を向けねばならない。これらの事態に、人間の身勝手な活動が関わっている。疑念の余地はない。
この10年、私たちの国は、どれだけの自然災害に見舞われただろう。世界の変容は、すなわち災害の変容となった。私たち人間が、社会が、なすべきは、全速力の己の変容です。
これまであったものだから、今ここにある国家も、何らかの役割を果たしてきたのだ。その昔、そして生まれてこの方、宿命のようなものに従い、今日消えてゆこうとしている。
流れがあって、私たちもその中にあった。
反省は多々あるだろうが、今日の日にかつての正邪を言いつのるより、長く暮らしてきた家なのだから、愛憎色々あっても、それはさておき、今は倒壊する家屋の下敷きにならぬよう、用心しなければならないだろう。
これまでの私たちの日々に小さく手を合わせ、今必要なことに取りかからねばならない。
私は、事態に翻弄され、弱りきった国家、社会と争ったり、いさかいを求めたりする時ではないと思っている。
一揆でなく、逃散こそ、ふさわしい。
争いを糧にして、亡者が息を吹き返す可能性もあるのだから。
黙って立ち去る。
新しいことを始めるにあたり、ほとんど失われた古の知恵を頼りにすることもあるだろう。
試行錯誤をしながら、じりじりと身を引いていく感じかもしれない。
逃散といっても、飛び去れるわけではない。
大きな変容をできるだけおだやかに進める心構えで。
実際に行動に移すのが難しい状況下、学んだり、イメージしたり、簡単ではないことをするのだから、準備の日々としよう。
なりすますものに、すがりついたり、目の前の安心と引き換えに、未来の大切なものを手離すことがないようにしたい。
生体識別番号を得て、生かされることを、有難がる人もいるかもしれないが、その道も行き止まりです。
人類は、コロナウィルスと向き合えれば、それで済むわけではない。
人類を包み込む世界の変容に直面しているのだから。
人類の隘路を抜け出す方策を探らねばならない。
人類の変容が、唯一出口への手掛かり。
世界に赦され、受容されるとき、世界の再生、復活への道程は、ようやく始まるのです。
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