9月18日に発表された「品川宣言」http://bit.ly/oksrmBに、異論があります。
この宣言の趣旨は、
「放射能に汚染された生産物=低レベル放射性廃棄物は、その線量の大小に関わらず、流通販売するべきではない、それらは、市民に対する加害物質であり、その供給は、人身に危害を加える傷害行為、ないしは殺人予備行為に他ならない」
というものです。
つまりは、東日本での農業・水産業を放棄するべきだ、という風に理解しました。
これをもってすれば、真っ先に被曝し、もっとも深く殺人的原発事故の影響下にある人(電力大消費地に原発立地を押し付けられた人)ほど、生産者としては、重罪人として、指弾されることになります。とうぜん私自身も、罪人とされましたが、反論したいと思います。
人間の歴史を振り返り、今の社会を見渡すならば、品川宣言のような考え方も、想定できないことはありません。届かないかもしれませんが、以下述べます。
私は、生産者と消費者が、いがみ合ったり、分断されるために、書いているのではありません。しかしながら、東京の地で、このような宣言をすることには、同意できません。福島及び周辺の生産者と共にできる宣言を、改めて、構想していただきたいと思います。
「ヒト」は、いつも、自分の都合だけで、目先のことだけ考えて生きています。私自身、九分九厘そうです。
福島の事故に至る経緯も同じでした。
「ヒト」以外のあらゆる生き物も同様なので、「ヒト」だけを責めることはできません。しかしながら、「ヒト」は並外れた破壊力を持ちながら、虫ケラと同じで本当にいいのでしょうか。
ほとんどの人と同じように、私も「嫌だ」と思います。もう少し、控え目な虫ケラになりたいと願います。
福島の事故は、「ヒト」が引き起こしました。それなのに、「ヒト」以外の生き物たちも被災しました。「ヒト」が「人の命は何よりも尊い」という時、カマキリも、他の生物も、「カマキリの命は何よりも尊い」とか、その様に生きています。「ヒト」が汚しておいて、「ヒト」だけが汚れを拒むのは、腑に落ちないのです。
私達百姓は、「ヒト」の反映の手先となり、食糧を生産しています。そして最前線で、他の生物を殺す役割を担っています。しかし同時に、「ヒト」以外の生き物達が、もつれ合うように生死を展開し、結果として土を肥やし、食べ物の源へと流れ込み、恵みをもたらすことも、承知しているのです。
「ヒト」は、”法”にのっとり生きるようにしています。”法”には、「ヒト」の権利とか義務とかがこと細かく記されています。しかしながら、世界には、「ヒト」の”法”など及びもつかぬ、言葉に尽くせない、さまざまな「掟」があり、何者もそれを超えて生きることはできないのです。「ヒト」の賢さ、公正さも、ほかの生き物が見たなら、いつでも、悪賢さやズルッコさでしかないと思います。
このたびも、最初に犠牲になったのは、地べたに張りついたまま老いた方々です。
いずれにしろ、ベクレル、シーベルト、NDとかは、誰も実体験できない、「ヒト」だけの決め事です。原発同様未熟な知恵で、「ヒト」が統御している知恵ではありません。利用するべきは、最も危険にさらされる人々(子供や、激甚な被災地の人々)を救出するためにであって、それを刃のように振りかざす前に、打ち降ろす先がどこなのか、自分達は何者なのかを考えなければなりません。
40年ほど前の、寄ってたかっての百姓蔑視の風潮を思い出します。
ついに「百姓」は、放送禁止用語となり、ふたをされたかっこうで、忘れ去られました。
今60歳位の農業者は、そんなさ中に、割に合わぬ職業を、代々の家業として継がれた訳です。七十代、八十代の先達も、そんな無慈悲な世界を耐え忍び、今日まで、田畑を守ってきたのです。
黙々と耕す人達は、お金の為にだけに、作物を育てているのでしょうか。農家は皆、大切なことと、生活の為のお金、の間で苦しんできたことと思います。
そうして、腰をかがめて田畑に向かう人々の背中に、放射能は降りました。
田舎に広がる田園風景を思い浮かべて下さい。
都市で生活する人も、都市から移り住んで20年そこそこの私も一緒に、この風景が築かれるまでの長い歴史を想像しましょう。そして未来の風景も思い浮かべてみましょう。
食糧自給率30%でも、何不自由のない生活。一部の人々が言うような「この国には、非効率な農業はいらない。農業は、お荷物でしかない」
グローバルな市場原理に基づく世界は、まだ始まったばかりのものです。しかも、世界の人口増、気候変動、世界の人々の食生活の変化を前に、きしみを立て、食糧問題には、暗雲が立ちこめています。
もう一度、この国の田園風景を思ってください。この風景を作り上げた気も遠くなるような営為を、この景色が生み出す恵みの深遠さを、考えてください。
目に見えぬ「ベクレル」とか「シーベルト」で汚した、途方もない罪悪を、大人たちは皆深く悔いなければならないと思います。
切り捨てる患部などでは、まったくありません。私達が手を差しのべ、共に歩まねばならない、現在も未来も共に、ここにあるのです。
伊藤 晃