東京新聞の11月27日の社説の題名が、「農業よ目覚めよう」でした。(クリックで読めると思います。すでに東京新聞のWEB上にはありません。)これを読んでの、晃の文章です。
危篤状態にいる人に、「目覚めの時です」と声をかけるのは、遺言を聞くためなのでしょう。いくらかは文化遺産として受け継がれていくのかもしれませんが、根を絶たれた遺産が、将来再生の手掛かりとなるかどうか疑問です。
何もかもが商業化し、経済換算されることに、異を唱えたいのです。
私も含め、新規参入した農家の多くは、生産・加工・販売を手がけています。しかし、社説や都会の一部の人が言うように、農業再生の切り札になるとは思っていません。これは、自分達の苦しまぎれの生き方なのです。
本物は手間暇がかかります。作り手が望むような、大切なことを守って納得がいく仕事によって生み出されるものは、「人々に普通に愛されるもの」から遠く離れていくばかりです。
かつてあり得たものが、どうしてすたれていくのか、考えてみてください。
風土に根ざすとは、風土に縛られること。こだわるとは、限りを作ることです。
それなのに、都市住民と同様、田舎の生活者も、お金で生活しなければならないからです。理解する尺度・余裕を持っている人は、あまり見当たりません。
いつでもどこでも買えるものは、まがいものとになっていきます。
今、農家は職人、芸術家であるよりも起業家となるよう求められています。
何故、多くの職種のように農家が作ることに専念しては、いけないのか? 私には、食べ物を侮り、お金を過信している人たちの横暴が見えます。
TPP参加で、米麦大豆など基幹作物の居場所が奪われることになるといわれています。
農業のすそ野は、一変します。それは、精神風土、心象風景といったものへの、根底的打撃となり、ついには、この国の物作りへの熱心さや勤勉さを育んだ土壌そのものを破壊することになります。共有するイメージを実現するための無言の無償労働によって守られてきた、この国の故郷、全ての産業の故郷を失うことになるかもしれません。
目の前の利益をみすみす取り逃すリスクよりも、はるかに大きな代償が存在するとわかってほしいのです。
私が20年間に垣間見たのは、広大な農の世界のごく一部でしかありません。豊穣な世界が語らぬまま荒野へ帰っていくかも知れません。
私は、朴訥だったり意固地に見えたりする先輩の仕事の中に、大きな領域に通じる扉の鍵が隠されていると信じて疑いません。
故郷とは、たぶん景色のことだけ言うのではなく、その向こう側でこれを支える人々の営み、安心して任せられる仕事ぶりのことを言っているだと思います。
社説は、百年の尺度を持って語ってほしいものです。やれ「幸福の国ブータン」、「TPPに遅れるな、国益を守れ」と、節度、分別というものが感じられません。
グローバリズムクラブからは、脱退すればよいのです。グローバルな世界は、否定しようもありませんが、あくまで来る者拒まずの姿勢に留め、下らぬ横車を押して、大切なものを圧殺してはなりません。
当然ここにも、リスクは存在し、受け入れねばなりません。
この国はしだいに貧しくなり、先進金持ちグループからも退場していくことになります。
しかし没落とは一方的な見方で、新しい地平を切り開こうと苦闘する姿が、かならずやそこにあります。その姿が見つけられた時、この国は、世界にとっての朗報となります。