今日12月4日は、衆議院選挙の公示日です。この日から、16日の投開票日まで、小選挙区300と比例代表180の計480議席をめぐって、政党要件を満たす12の政党と候補者が、選挙活動を行うわけです。
有権者は、何を心棒にして、候補者を選ぶのか。
私たちは、「根本党の会」を主張します。詳しくは、11月18日更新の「晃のページ 根本党の会」を読んでください。かいつまんで言うと、「①TPP参加に反対する ②原発は発電停止し、廃炉処分に取り組む ③重要な問題に関し、民意を問う方法として、国民投票を位置づける」です。
そして、その心を、以下掲載したいと思います。長文ですが、何度か読むと、「うまみ」がにじみ出てくると、私は思ってます。(泰子)
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どのような国で、どんな時、原発事故は起こったのか。
数え上げてほしいもの、教えてほしいこともたくさんある。
この国の田畑は、これまでどれほどの太陽光エネルギーを保存可能な食糧(エネルギー体)へと変換してきたのだろうか。
耕作を放棄され、休耕を余儀なくされた田畑は、人間が利用できたはずのエネルギーを、みすみす頂きそこねた挫折の姿ではないか?
遠大な計画を実現し、途方もない労力と時間をかけ、しつらえれた太陽エネルギーの変換装置が、原野に浸食されていく様は、この国がすたれ行く姿に違いない。
食糧生産は、他のあらゆるエネルギー生産の様式に先んじている、効率的、かつ、持続可能な生産手段でもある。数千年の試行錯誤を経て、無数の風土に挑み、世界中にくまなく行きわたり、結実する姿は、見事な樹形を形作った。
しかし、枝先から、枯死が始まった。
からみ合うように繁盛していた枝を押しのけ、死滅させながら格別に勢いを増す枝があるのだ。
樹形は貧相単調になろうとしている。
食糧は生命維持のためのエネルギーのほぼ全量をまかない、生産活動への参加を可能にするエネルギーのことでもある。食糧自給は、国家のエネルギー自給の背骨にあたる。その自給率の低下は、国家のエネルギー自給の骨抜きのことを言う。
食糧生産地域の現状は、年を重ねては、先細り、当たり前の生命の営み=命の更新はほとんどなされていない。
なぜなら、近頃では、農業を担うにあたり、国家からの棄民として生きる覚悟が必要だからだ。
かといって、驚くこともおそれることもない。考えてみれば、私たちの隣人、鳥や草や昆虫も、元々そのように生きている。
棄民たちは、国家とは比較にならない、果てしない世界と向き合っている。孤独でも自由に、はかなくとも、命の実現に力を尽くす毎日はむなしい自分をいつでも超えていくことである。
人類も、人類による国家も、他の生き物同様に、世界環境の中に包み込まれ、ここからの恵みを受けることで生存可能となる。
国家からの棄民には、まだ、希望の余地だってあるのだ。
3・11福島原発事故は、どのような惨事を引き起こしたのだろうか。放射能禍は、多くの福島県民と世界のつながりを断った。心身とも、不可分の故郷を奪われ、世界からの棄民とされた。本分から引きはがされ、国民という肩書を除き、すべてを失った。
人が生き延びるために、国民であることは、決して十分な条件ではない。すべての人々が世界の中にあって始めて生かされることを自覚し、それぞれが望む姿で世界と接し、その一員として生きる実感を得られることこそが大事だ。
国家のなすべき仕事は、世界の成員として生きる国民を支えること。洋上の領土を語る前に、土に依拠し、水と空気に依存する命の一種族として当たり前の原理を理解し、原理に沿った原則を保守することだ。
失政によって、棄民を生み出した国家は、棄民たちが再び世界と合流できるよう、全力を挙げなければならない。
ことはたやすくはない。
私は失政と書いたが、これを認めず、国土破壊、国民の生活破壊の歴史的罪を犯した政治家たちが、自ら、保守を名乗り、国会に居座り、明日のこの国を語っているのだ。これでは、国家の体を成していないばかりか、醜く、面目ない。
今こそ、人々は国民の義務と責任とやらを引き受け、国の在り様を修正しなければならない。原理保守の原則に従い、政治家を入れ替えなければ、展望は開けてこない。
再びの開国を口にする人は、このうえ、何を開け渡そうとしているのか。
維新を騒ぎ立てる人は、別種の強欲に我を忘れようとしているだけに見える。
宇宙の圧倒的な力の運行のさなか、私たちは無力ではかなくとも生きる。
太陽は今日も光を届けてくれ、明日も変わらないだろう。
水も空気も土も残されている。
私達が受け継いだ命は、これを全うする力を与えられている。そのうえ先達から手渡され、伝えられた知恵と宝物にも囲まれているのだから、これを深め日々改良することを心がけてゆけばよいのだ。
追い詰められたのは、強欲のことなのだから、余計なものを捨て、目ざめれば私たちの欲望は十分に充たされる。思い出したものを復旧し、私たちのものにできるよう、訓練を始めよう。目の前に遺された贈り物が朽ち、万事休すとならぬように。
さあ、我ら有象無象の者たちも、泥の中から少し身を起こし、声を上げる時だ。我らのみならず、将来我らが継承者たちの糧や寝床を失うことがないように。
このままでは、台無しになる風景を、生気みなぎるものへと立て直せるのは、人間世界や経済のことで頭がいっぱいの政治家でなく、背景の細部に埋没してきた人間たちだ。
人間は反転できる。穏やかな混沌を実現して、ねぐらへ帰ろう。
(2012年12月4日)