3月10日
ほころび、春の訪れを告げた筈の梅がもう一度いっそうみすぼらしい冬枯れ状態に戻ったように見えます。春はとんとんと進まず、梅が桜でない道理を納得します。
「はい、さようなら」と行かず、ボロ着となっても、なお子実を守るのも美学か。
化石燃料バブルの終盤を生きる我々は、ご先祖様のエキスをすするようなものか。
どんな実を結ぶつもりか。
たぶん人間バブルの終末を生きながら。
3月14日
海の向こうではない、この地べたの先に食べ物を送り届けるのだ。
今までも、そして今こそ、百姓は底力だということを自覚しよう。
食べ物作りに没頭しよう。
3月19日
風物に杉の花粉が万遍なくまぶされ、そこにはいくらかの放射能もまじるという。
そして本当の春がようやくやって来る。
桜や多くの花が休むことなく咲き、散っていくのだろう。
景色のそこここに花びらが撒き散らされ、たぶんどの花ビラにも、いくらかの放射能が付着していくのだろう。
3月23日
気象も含め、森羅万象、お天道様が決めることだから、
人類の生き死ににも、きょう播いた菜っ葉の種の行く末も、
不確かだ。
でも、今私達は、お天道様の生き死にも、ちっぽけに思える大きな摂理、
律動の渦中にあることを知っている。
3月24日
約束の春は履行されず、天地今だ定まらず、
そんな中、人の心も落ち着いていられない。
天地創造を逆行するような3月である。
人が近づけたくないもの、見たくないものは、警告を発し、
人のありのままの姿を、輪かくを際立たせることで鮮明にする。
何ごとにも涯(はて)はある。
人の命も、自由も、夢もそこ迄である。
そこから先は、混沌が涯しなく広がっている。
我々のゆりかご、墓所である。
3月28日
原発から発する霧と、皆の喧騒とて、互いの顔も見えず、声も届きにくい中、
不安や怖れとが、霧をいっそう深めています。
自分の身を守るのに精一杯で、無分別になっている人もいます。
霧の中、深々と呼吸をして、百姓は、静かな定点となります。
私達を測ってみて下さい。
4月3日
日常が覆り、美しいもの大切なものも多く失われた。
失われた命は戻って来ないが、残された命がある限り、時間はかかっても、かつての風景と生活は蘇る。
それは必ずはたされる約束された希望だ。
ただ悪しき遺物には、金輪際出て行ってもらわなければならない。
それは疲へいした人々を、むしばみ、甦りを妨げる重石となる。
4月15日
3月11日以降、この世は、あの世となりました。
地獄でもなくまして天国でもなく。
歩みをピタリと止めていた季節の移ろいも、ひと月を経て疾走を始めた。
でも、春は見合わされ、そうでなければ、素通りされたようです。
桜花と雑木林の芽吹きは同時にやって来て、霞に煙る里山の、今日の美しさは、千年に一度のものかもしれない。
思い起こせば、天国も地獄も又、この世のものでありました。
4月16日
百姓は季節を刻む、時計の役割を担う。
天地が多少乱れても、翻弄されることがあっても、種を播き、苗を植える。
幸い未来のことは不確実だ。可能性はいつだってあるのだ。
私達は、種や苗の力も、把握しきれていないし、
物事の流れには、上流も下流もなく、去ったものも、
かならず帰ってくるのだ。
5月6日
とば口にいる、私が言うのも何ですが、田舎だって奥が深いのです。
二千年かけて培った知恵もあります。数十年の変化を経ただけで、判断を下せる代物ではないのです。
しかし、手をこまねいていれば、あと数年で、広大な、田舎の情報遺産もほとんど失われてしまうでしょう。
この国に、知恵と力を、慈悲深さをもって惜し気なく与えてくれた地方に、少しでもお返ししなければなりません。
彼らが力を取り戻す迄ささえ続けることで、奪い続けたものを、返すのです。