同じく「晃のページ」に、4月にアップした「未タイトル」を推敲・加筆して、「野に国つくり」という題名を付けました。
縦書きスキャン画像(クリックすると拡大します)と、PDFファイル、および横書きテキストで以下に載せます。さいごまで、お読みいただけるとうれしいです。(管理人)
はじめに
私は、人間社会の辺境部、野と人間社会の境界あたり、両世界の定かではない扉の前に、はいつくばる者です。野から大風が吹き付ければ、真っ先に吹き飛ばされる、輩です。
今、前方に広がる野を語ることで、自分の置かれた心もとない状況よりも、目玉の裏方に息をひそめる世界について、考えたかったのです。
私たちは、一生命として、所属する社会、国家の一員として、野を宿しています。むしろ、目を閉じて、様々な深度で野と向き合わなければならないわけです。
野の広がりをあなどれば、裏山のヤブに迷い、すぐそこにあるはずの我が家に戻ることもできなくなります。
みだりに、ヤブをつつく者もおり、注意が必要です。(2014・3・20)
根拠のわからぬ数字から汲み取れるものはわずかです。
そのかわり、漠とした景色やら、人々のざわめき、つぶやきなどから、世界の姿を妄想します。
妄想が連なり、伝わり、こだますることがあれば、後に、奏でるものを待つこともできます。
その音色に聞き入るうちに、踊り出すかもしれません。
ちっぽけな剪定作業、草管理が連なって、絵巻物ができ上がり、
人々は見渡す景色に安堵を共有してきました。
訳あって引かれた曲線の見事さ、地表をなぞる幾筋もの曲線は、互いにうなずき合います。
この地に生きる人々が、風土に聞き耳をたて描き切った線だからです。
起伏にまぎれ、風景に溶け込み、気付かれぬものがほとんどです。
けれど、ためらわず、真っ直ぐに引かれた曲線は、村の輪郭を示し、村内部の実相を映し出し、来歴を語ることができます。
つまり、村の正体一切を記しているのです。
保守管理を担うのは、村人です。当事者として、あるいはボランティアで引き受けてきたのです。あげつらえば、とてつもない行程が用意されたものですが、
おのおの相応の持ち場を受け持ち、私もささやかな貢献に精を出します。
国家は、こうして村々の片隅から、この国の風景は、細々としてとらえどころのない曲線で編み出され、日々つくろわれています。
普通の村人の手により、国家はようやくその実態を与えられたのです。
私が思うに、国体とは、まさしくこのもののことです。
国体は、人びとが、多様な風土に従う作法をもって、世界に寄宿する姿のことです。
それでは、人々に落ち度がなく、作法が守られていたら、国体の安寧は保証されるのでしょうか? 世界は、私たちにとり特別な1日1分1秒を淡々と生み出します。
エネルギーは、世界を縦横に横切り、流転し、地の底から湧き出し、彼方から吹き込まれ、という風に、様々な姿で、どこからでも押し寄せます。
衝突、加速、渦巻きを引き起こします。
隆起、沈降、噴出、崩壊も、流れの過程です。
宇宙も地球も、海も大気も、欲望し、動きを止めない。
そんななかで、人間は生活しているのです。
波乱も風土のうち、宿命と言えます。
国作りに終わりはないのです。
ところが、圧倒的多数が都市に暮らし、多くのものが、性急な欲望のままにひかれる直線で構成され、表現される景色の中で、人々は、いつしか錯覚に陥り、世界に囲まれた、浮島のような都市を、過大評価しているようです。
都市は、取り巻く世界の息吹にさらされ、世界の奥行きを実感できる大きさであったらよいのですが、膨張は続き、外部環境からの警告も、ますます届きづらくなっています。
人々は目の前の同類にも関心がなく、ディスプレイに熱中しています。
国家、社会は、一個人と同じように、身体と心があるように、ふるまいます。
国の体、国体は、先に述べましたが、国の心はといえば、十人十色、方向性もバラバラです。
そもそも人々が励む国作りは、世界の中に自分の居場所をつくる作業です。国体のイメージは共有されているわけではないのです。
かろうじて、憲法及び事細かな法制度で、国民の一体感を表現しようと試みられます。国柄を、法制の独自性で表現し、細部を傷つけることのないよう、保守しようとしています。
歴史、風土に根ざす法体系が、国の心のプロフィールとなります。法制は、人々の活動に枠を設け制限し、場合によっては禁止します。
法制は、国民はかくあるべし、一部利己的な営利活動よりも、大切なものがあると、人びとに知らしめます。
大切なものとは、倫理、道徳、美意識に照らし、守るべき価値ありと判断されたもののことです。
倫理や美意識は、人の心の中のものです。教育をほどこされ、日頃の生活の中で出会う情報から、形作られます。
世界と接する中で、結晶化せる感覚を国家存立の礎とするなら、人々を取り囲む景色は、かけがえのない教室と思えてきます。
あたりを見回せば、荒れ模様。新自由主義とかがもてはやされています。
奇跡や偶然がバネになり、宿命や定めに後ろ髪をひかれ、世界は作られていきます。
私たちは思っているよりも、身も心も外部世界と通じ合い、境界もあいまいで、自由すら私の中ににわかに芽生えるものではなく、私の境界をまたぎ呼び合い動き出す、私を載せる風のようなものです。
不動と思われる巨木も、あてどなく自由な旅を続けています。
ちっぽけな生命もグローバルなものなのです。
見えやすい物、金の流れに拘泥し、短絡的なのが、グローバリズムのことでしょうか。
自由を振りかざされ、世界中似かよった風景になってしまうのは、つまらないです。
さりとて、私たちは、自分たちの領域にたてこもり、思い出を大切にだきしめることで、しのぎきれるでしょうか。生きるために、脱落を余儀なくされるものもあり、小さなシステムを守るのも大変です。
自由貿易は、倫理とか伝統、文化を守る法制度を乗りこえようとします。規制に悪名をきせ、経済発展、投資拡大のさまたげを取り払い、もうけ話の邪魔を許しません。
規制は、社会が保持してきた、さまざまな世界観、守らねば失われかねぬ、社会のアイデンティティーに関わっています。
新自由主義者は、国家のアイデンティティーを骨抜きにします。
国家は、世界経済に身を投げ、のみこまれ、地上から消えてゆくのでしょうか?
いいえ、継承する生活を失った人、国家の権威に頼って生活してきた人々は、かえって、根拠のないナショナリズムに固執するようです。
空ろな題目を繰り返しながら、どこへ向かうのでしょう。
新自由主義者は、姿をくらまし身をひそめます。ナショナリズムは個人の自由を嫌うからです。
かつて、明治維新に伴う秩序、枠組みの破壊は、この国を極端な国家主義へと向かわせました。
今、新自由主義は、人心の拠り所を破壊し、人々の心を国家へと誘う先棒担ぎをしているのです。
国家が、国家主義におちいり、開き直れば、堕落は底なしになります。愚かさを偽装し、維新ゆえに国体をほしいままにできると思いこむようになります。
カルト国家の出来上がりです。
都市から遠く離れた周縁部で進行する、退廃と退却の動きが反転し、都市からのあらゆる種類、相当規模の移転が起こり、村々が活気を取り戻し、ここで瑞々しい感覚が、世界と接する変哲もない当たり前を望めないならば・・・
「あとは野となり山となり」この国の命運も尽きます。
国は、争って守れるものでも、景気が作り上げるものでもありません。
近頃、国の財産目録作りが進んでいます。
遺言は誰のために遺されるのでしょう。
並行して、歴史は、書き換えられ、糊塗隠ぺいが横行し、うわべをとりつくろいます。
疑うことを許さぬ前進は、善きものを道連れに断崖へと急ぎます。
その縁に遺言状は置かれます。
願わくば、よきものをかくまい、養生させ、未来へと送り届けたいものです。
追っ手をかわす小道は、やがて、張り巡らされた網となり、時空をこえる迷路は強度を増し、岩盤となります。
トップダウンで打ち下ろされるドリルを受け流し、再生の糸口、まだ癒えぬ傷口も守りたいのです。
景色の片隅で、つくろい続ける人がいて、その周りで、少なからぬ人々が、試行錯誤を始めているようです。
人は、国家のために生きるのではありません。
世界と関わり生活する結果として国を作るのです。
いかがわしい国家にあって、国体はただ経済活動の場だと思われています。国体を自分たちの領分、縄張りとしか考えません。
日本国が、福島原発事故を起こし、国体をひどく傷つけても、原発を止めることができず、原発を商うさもしさは、このようなことなのでしょう。
心と体が、不可分なのは、国に関しても同じです。
国体が病み傷ついた今、心も同様です。
法、憲法とて、病人にふさわしいものへと改変されるかもしれません。
人々が、普通に思い、感じることが言葉にされないと、つまらぬ言葉や作文に言い負かされ、言いくるめられてしまいます。
すでにある立派な知恵が、いつまでたっても、中身のない言葉に抗えない歯がゆさをずっと感じてきました。
定点観測しながら、せめて見えるものを整理しようとしてきたのですが、近ごろでは、定点に立ち続けるのも楽なことではありません。
地べただけ見ておればよいものを、と言われますが、遠くをみるのも百姓の仕事のうちです。
人里の風景は、人々が感じ、考えたことを、起伏の上に刻み続けた知恵の結晶です。
忍苦よりも、あこがれが成し遂げた仕事です。
世界に寄り添い、愛し愛されたいという欲望のなせる技です。人は、世界の外部でも中心にでもなく、その中に混じり合う一要素です。
私たちは、ハチがあこがれ飛び立つように、クワを振るい、種を播くのです。
心のままに欲し、挑むことが許された世界で、自生する草木に並び、今を甘んじて生きることができるはずです。
終わりに
2011年2月に発表された、国交省の50年後の未来予測は、全国で2,300の行政区の消滅を予想しています。3月11日大震災の1か月前です。
また、今年5月9日の新聞には、民間の研究グループによる未来予想図が掲載されていました。私の住む町も、若年女性数の半減が予想される町として、小さく載っていました。
どちらの報告も、行き先を知りながら、ただ静かに坂道を降りていく人々を思い描いているようですが、どんなものでしょう。
私も、この国がなるだけ穏やかについえ去ることを願っていますが、直すことも、支えることもかなわぬ巨体が崩落を始めたのだと、覚悟しなければなりません。
私たちが壊し、台無しにし、あきらめ、放置するほころびが、国を破ります。
はるか沖合の島に誰がどれほど熱中しようと、この国は滅んでいきます。
どこかの国に守られようと、支配され続けようと、足りても足りなくても、出た出ないと言い争っているときも、この国は刻々滅んでいます。
私たちは、自分の力で立つことの意味も方法も忘れました。
人は、自分の腹痛には気づきますが、国の痛み、衰弱には無頓着です。
ですから、上機嫌で患部を痛めつけ、とことんさいなむことができるのです。
しかし、ながめれば、個々の人間の落ち度と相まって、細分化した機構、制度は、全体を貫く意志と魂の不在によって、神経が働かぬために、それぞれを連結、統合させる響きや伝達は起こらず、そこここに孤立し、老化を深め、そのかたわらでは一人過熱暴走する、という風に、道具立てひとつひとつの中に、やはり今日のこの国の姿を、見ることになるのです。
滅びかけた国に生きながら、新しい国、私たちの国作りに励むのは、楽なことではないでしょう。しかしながら、国は不可避です。
私たちの個々の営みを調整する必要から、国家という概念も捨て去ることはできないのです。
それにしても、なぜ、私が、村作りと言わずに、国作り、というのかと問われるならば、歴史的遺産を食い潰しながらの惰力と、形ばかりの延命措置を得て、長らえている村に細々と暮らしながらも、どこかで、同様の境遇にある多くの人びとを思い浮かべるからです。
みじんの細胞のごとき私たちは、はるか遠く、新しい国に思いを馳せることで、世界を萎えさせる大きな力を前にして、小さな村を作るという目の前の途方もない困難に、ようやく立ち向かうことができるのです。
人となるまでに、10万年。
村つくりに1万年。
国つくりに1千年。
野も望む私たちの使命は、きっとこんなことです。(2014・6・1)