菜園 「野の扉」

~ 1993年の開園以来、埼玉県寄居町で、農薬と化学肥料を一切使わず 野菜を作っている、新規就農の百姓です。

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野に国つくり

同じく「晃のページ」に、4月にアップした「未タイトル」を推敲・加筆して、「野に国つくり」という題名を付けました。

縦書きスキャン画像(クリックすると拡大します)と、PDFファイル、および横書きテキストで以下に載せます。さいごまで、お読みいただけるとうれしいです。(管理人)

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野に国つくり1P

野に国つくり2P

野に国つくり3P

野に国つくり4P

野に国つくり5P

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はじめに

 私は、人間社会の辺境部、野と人間社会の境界あたり、両世界の定かではない扉の前に、はいつくばる者です。野から大風が吹き付ければ、真っ先に吹き飛ばされる、輩です。
 今、前方に広がる野を語ることで、自分の置かれた心もとない状況よりも、目玉の裏方に息をひそめる世界について、考えたかったのです。
 私たちは、一生命として、所属する社会、国家の一員として、野を宿しています。むしろ、目を閉じて、様々な深度で野と向き合わなければならないわけです。
 野の広がりをあなどれば、裏山のヤブに迷い、すぐそこにあるはずの我が家に戻ることもできなくなります。
 みだりに、ヤブをつつく者もおり、注意が必要です。(2014・3・20)

 

根拠のわからぬ数字から汲み取れるものはわずかです。
そのかわり、漠とした景色やら、人々のざわめき、つぶやきなどから、世界の姿を妄想します。
妄想が連なり、伝わり、こだますることがあれば、後に、奏でるものを待つこともできます。
その音色に聞き入るうちに、踊り出すかもしれません。

ちっぽけな剪定作業、草管理が連なって、絵巻物ができ上がり、
人々は見渡す景色に安堵を共有してきました。
訳あって引かれた曲線の見事さ、地表をなぞる幾筋もの曲線は、互いにうなずき合います。
この地に生きる人々が、風土に聞き耳をたて描き切った線だからです。
起伏にまぎれ、風景に溶け込み、気付かれぬものがほとんどです。
けれど、ためらわず、真っ直ぐに引かれた曲線は、村の輪郭を示し、村内部の実相を映し出し、来歴を語ることができます。
つまり、村の正体一切を記しているのです。
保守管理を担うのは、村人です。当事者として、あるいはボランティアで引き受けてきたのです。あげつらえば、とてつもない行程が用意されたものですが、
おのおの相応の持ち場を受け持ち、私もささやかな貢献に精を出します。
国家は、こうして村々の片隅から、この国の風景は、細々としてとらえどころのない曲線で編み出され、日々つくろわれています。
普通の村人の手により、国家はようやくその実態を与えられたのです。
私が思うに、国体とは、まさしくこのもののことです。
国体は、人びとが、多様な風土に従う作法をもって、世界に寄宿する姿のことです。

それでは、人々に落ち度がなく、作法が守られていたら、国体の安寧は保証されるのでしょうか? 世界は、私たちにとり特別な1日1分1秒を淡々と生み出します。
エネルギーは、世界を縦横に横切り、流転し、地の底から湧き出し、彼方から吹き込まれ、という風に、様々な姿で、どこからでも押し寄せます。
衝突、加速、渦巻きを引き起こします。
隆起、沈降、噴出、崩壊も、流れの過程です。
宇宙も地球も、海も大気も、欲望し、動きを止めない。
そんななかで、人間は生活しているのです。
波乱も風土のうち、宿命と言えます。
国作りに終わりはないのです。

ところが、圧倒的多数が都市に暮らし、多くのものが、性急な欲望のままにひかれる直線で構成され、表現される景色の中で、人々は、いつしか錯覚に陥り、世界に囲まれた、浮島のような都市を、過大評価しているようです。
都市は、取り巻く世界の息吹にさらされ、世界の奥行きを実感できる大きさであったらよいのですが、膨張は続き、外部環境からの警告も、ますます届きづらくなっています。
人々は目の前の同類にも関心がなく、ディスプレイに熱中しています。

国家、社会は、一個人と同じように、身体と心があるように、ふるまいます。
国の体、国体は、先に述べましたが、国の心はといえば、十人十色、方向性もバラバラです。
そもそも人々が励む国作りは、世界の中に自分の居場所をつくる作業です。国体のイメージは共有されているわけではないのです。
かろうじて、憲法及び事細かな法制度で、国民の一体感を表現しようと試みられます。国柄を、法制の独自性で表現し、細部を傷つけることのないよう、保守しようとしています。
歴史、風土に根ざす法体系が、国の心のプロフィールとなります。法制は、人々の活動に枠を設け制限し、場合によっては禁止します。
法制は、国民はかくあるべし、一部利己的な営利活動よりも、大切なものがあると、人びとに知らしめます。
大切なものとは、倫理、道徳、美意識に照らし、守るべき価値ありと判断されたもののことです。
倫理や美意識は、人の心の中のものです。教育をほどこされ、日頃の生活の中で出会う情報から、形作られます。
世界と接する中で、結晶化せる感覚を国家存立の礎とするなら、人々を取り囲む景色は、かけがえのない教室と思えてきます。

あたりを見回せば、荒れ模様。新自由主義とかがもてはやされています。

奇跡や偶然がバネになり、宿命や定めに後ろ髪をひかれ、世界は作られていきます。
私たちは思っているよりも、身も心も外部世界と通じ合い、境界もあいまいで、自由すら私の中ににわかに芽生えるものではなく、私の境界をまたぎ呼び合い動き出す、私を載せる風のようなものです。
不動と思われる巨木も、あてどなく自由な旅を続けています。
ちっぽけな生命もグローバルなものなのです。
見えやすい物、金の流れに拘泥し、短絡的なのが、グローバリズムのことでしょうか。
自由を振りかざされ、世界中似かよった風景になってしまうのは、つまらないです。
さりとて、私たちは、自分たちの領域にたてこもり、思い出を大切にだきしめることで、しのぎきれるでしょうか。生きるために、脱落を余儀なくされるものもあり、小さなシステムを守るのも大変です。
自由貿易は、倫理とか伝統、文化を守る法制度を乗りこえようとします。規制に悪名をきせ、経済発展、投資拡大のさまたげを取り払い、もうけ話の邪魔を許しません。
規制は、社会が保持してきた、さまざまな世界観、守らねば失われかねぬ、社会のアイデンティティーに関わっています。
新自由主義者は、国家のアイデンティティーを骨抜きにします。
国家は、世界経済に身を投げ、のみこまれ、地上から消えてゆくのでしょうか? 
いいえ、継承する生活を失った人、国家の権威に頼って生活してきた人々は、かえって、根拠のないナショナリズムに固執するようです。
空ろな題目を繰り返しながら、どこへ向かうのでしょう。
新自由主義者は、姿をくらまし身をひそめます。ナショナリズムは個人の自由を嫌うからです。
かつて、明治維新に伴う秩序、枠組みの破壊は、この国を極端な国家主義へと向かわせました。
今、新自由主義は、人心の拠り所を破壊し、人々の心を国家へと誘う先棒担ぎをしているのです。
国家が、国家主義におちいり、開き直れば、堕落は底なしになります。愚かさを偽装し、維新ゆえに国体をほしいままにできると思いこむようになります。
カルト国家の出来上がりです。


都市から遠く離れた周縁部で進行する、退廃と退却の動きが反転し、都市からのあらゆる種類、相当規模の移転が起こり、村々が活気を取り戻し、ここで瑞々しい感覚が、世界と接する変哲もない当たり前を望めないならば・・・
「あとは野となり山となり」この国の命運も尽きます。
国は、争って守れるものでも、景気が作り上げるものでもありません。

近頃、国の財産目録作りが進んでいます。
遺言は誰のために遺されるのでしょう。
並行して、歴史は、書き換えられ、糊塗隠ぺいが横行し、うわべをとりつくろいます。
疑うことを許さぬ前進は、善きものを道連れに断崖へと急ぎます。
その縁に遺言状は置かれます。
願わくば、よきものをかくまい、養生させ、未来へと送り届けたいものです。
追っ手をかわす小道は、やがて、張り巡らされた網となり、時空をこえる迷路は強度を増し、岩盤となります。
トップダウンで打ち下ろされるドリルを受け流し、再生の糸口、まだ癒えぬ傷口も守りたいのです。
景色の片隅で、つくろい続ける人がいて、その周りで、少なからぬ人々が、試行錯誤を始めているようです。

人は、国家のために生きるのではありません。
世界と関わり生活する結果として国を作るのです。
いかがわしい国家にあって、国体はただ経済活動の場だと思われています。国体を自分たちの領分、縄張りとしか考えません。
日本国が、福島原発事故を起こし、国体をひどく傷つけても、原発を止めることができず、原発を商うさもしさは、このようなことなのでしょう。
心と体が、不可分なのは、国に関しても同じです。
国体が病み傷ついた今、心も同様です。
法、憲法とて、病人にふさわしいものへと改変されるかもしれません。

人々が、普通に思い、感じることが言葉にされないと、つまらぬ言葉や作文に言い負かされ、言いくるめられてしまいます。
すでにある立派な知恵が、いつまでたっても、中身のない言葉に抗えない歯がゆさをずっと感じてきました。
定点観測しながら、せめて見えるものを整理しようとしてきたのですが、近ごろでは、定点に立ち続けるのも楽なことではありません。
地べただけ見ておればよいものを、と言われますが、遠くをみるのも百姓の仕事のうちです。

人里の風景は、人々が感じ、考えたことを、起伏の上に刻み続けた知恵の結晶です。
忍苦よりも、あこがれが成し遂げた仕事です。
世界に寄り添い、愛し愛されたいという欲望のなせる技です。人は、世界の外部でも中心にでもなく、その中に混じり合う一要素です。
私たちは、ハチがあこがれ飛び立つように、クワを振るい、種を播くのです。
心のままに欲し、挑むことが許された世界で、自生する草木に並び、今を甘んじて生きることができるはずです。

 

終わりに

 2011年2月に発表された、国交省の50年後の未来予測は、全国で2,300の行政区の消滅を予想しています。3月11日大震災の1か月前です。
 また、今年5月9日の新聞には、民間の研究グループによる未来予想図が掲載されていました。私の住む町も、若年女性数の半減が予想される町として、小さく載っていました。

 どちらの報告も、行き先を知りながら、ただ静かに坂道を降りていく人々を思い描いているようですが、どんなものでしょう。
 私も、この国がなるだけ穏やかについえ去ることを願っていますが、直すことも、支えることもかなわぬ巨体が崩落を始めたのだと、覚悟しなければなりません。

 私たちが壊し、台無しにし、あきらめ、放置するほころびが、国を破ります。
 はるか沖合の島に誰がどれほど熱中しようと、この国は滅んでいきます。
 どこかの国に守られようと、支配され続けようと、足りても足りなくても、出た出ないと言い争っているときも、この国は刻々滅んでいます。
 私たちは、自分の力で立つことの意味も方法も忘れました。


 人は、自分の腹痛には気づきますが、国の痛み、衰弱には無頓着です。
 ですから、上機嫌で患部を痛めつけ、とことんさいなむことができるのです。
 しかし、ながめれば、個々の人間の落ち度と相まって、細分化した機構、制度は、全体を貫く意志と魂の不在によって、神経が働かぬために、それぞれを連結、統合させる響きや伝達は起こらず、そこここに孤立し、老化を深め、そのかたわらでは一人過熱暴走する、という風に、道具立てひとつひとつの中に、やはり今日のこの国の姿を、見ることになるのです。

 滅びかけた国に生きながら、新しい国、私たちの国作りに励むのは、楽なことではないでしょう。しかしながら、国は不可避です。
私たちの個々の営みを調整する必要から、国家という概念も捨て去ることはできないのです。

 それにしても、なぜ、私が、村作りと言わずに、国作り、というのかと問われるならば、歴史的遺産を食い潰しながらの惰力と、形ばかりの延命措置を得て、長らえている村に細々と暮らしながらも、どこかで、同様の境遇にある多くの人びとを思い浮かべるからです。
 みじんの細胞のごとき私たちは、はるか遠く、新しい国に思いを馳せることで、世界を萎えさせる大きな力を前にして、小さな村を作るという目の前の途方もない困難に、ようやく立ち向かうことができるのです。

人となるまでに、10万年。
村つくりに1万年。
国つくりに1千年。

野も望む私たちの使命は、きっとこんなことです。(2014・6・1)

 

 

投稿情報: 2014/06/08 | 個別ページ | トラックバック (0)

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未タイトル

タイトルがまだ決まっていません。書き始めた時は、「ニャー公のかたわらで考えたこと」だったのですが。原稿を読んだ、晃の兄の助言で、縦書き表示もできるようにしてみました。

 

テキスト縦書き表示にするには、ここをクリックしてください

 

(以下は、同文の横書きです)

私は、人間社会の辺境部、野と人間社会の境界あたり、
両世界の定かではない扉の前に、はいつくばる者です。
野から大風が吹き付ければ、真っ先に吹き飛ばされる、輩です。
今、前方に広がる野を語ることで、自分の置かれた心もとない状況よりも、目玉の裏方に息をひそめる世界について、考えたかったのです。
私たちは、一生命として、所属する社会、国家の一員として、野を宿しています。
むしろ、目を閉じて、様々な深度で野と向き合わなければならないわけです。
野の広がりをあなどれば、裏山のヤブに迷い、すぐそこにあるはずの我が家に戻ることもできなくなります。
みだりに、ヤブをつつく者もおり、注意が必要です。
(2014/03/20)

 

根拠のわからぬ数字から汲み取れるものはわずかです。
そのかわり、漠とした景色やら、人々のざわめき、つぶやきなどから、世界の姿を妄想します。
妄想が連なり、伝染り、こだますることがあれば、後に、奏でるものを待つこともできます。
目を閉じ聞き入り音色に合わせ、踊り出すかもしれません。

ちっぽけな剪定作業、草管理が連なって、絵巻物ができ上がり、
人々は見渡す景色に安堵を共有してきました。
訳あって引かれた曲線の見事さ、地表をなぞる幾筋もの曲線は、互いにうなずき合います。
この地に生きる人々が、風土に聞き耳をたて描き切った線だからです。
起伏にそい、風景に溶け込むように、目立たず気付かれぬものも多いです。
ためらわず、真っ直ぐに引かれた曲線は、村の輪郭を示し、村内部の実相を映し出し、来歴を語ります。
つまり、村の正体一切を記しているのです。
保守管理を担うのは、村人です。当事者として、あるいはボランティアで引き受けてきたのです。あげつらえば、とてつもない行程が用意されたものですが、
おのおの相応の持ち場を受け持ち、私もささやかな貢献に精を出しています。
国家は、こうして村々の片隅から、この国の風景は、細々としてとらえどころのない曲線で編み出され、日々つくろわれています。
普通の村人の手により、国家はようやくその実態を与えられたのです。
私が思うに、国体とは、まさしくこのもののことです。
国体は、人びとが、多様な風土に従う作法をもって、世界に寄宿する姿のことです。

では、人々に落ち度がなく、作法が守られたとしたら、国体の成果は保証されるのでしょうか? 世界は、私たちにとり特別な1日1分1秒を淡々と生み出します。
エネルギーは、世界を縦横に横切り、流転し、地の底から湧き出し、彼方から吹き込まれ、という風に、様々な姿で、どこからでも押し寄せます。
衝突、加速、渦巻きを引き起こします。
隆起、沈降、噴出、崩壊も、流れの過程です。
宇宙も地球も、海も大気も、欲望し、動きを止めない。
そんななかで、人間は生活しているのです。
波乱も風土のうち、宿命と言えます。
ところが、都市に暮らし、多くのものが、人間の欲望が引く直線で構成され表現される景色の中で、人々は、いつしか錯覚に陥り、世界に囲まれ、浮島のような都市を、過大評価しているようです。
都市は、取り巻く世界の広さをいつでも実感できる大きさであったらよいのですが、膨張は続き、外部環境からの警告も、ますます届きづらくなっています。人々は目の前の同類達にも無関心で、ディスプレイに熱中しています。

国家、社会にも、一個人と同じように、身体と心があります。
国の体、国体は、先に述べましたが、国の心はといえば、国家の成員、国民一人一人の心の中にあるままで、十人十色、方向性もバラバラです。
かろうじて、憲法及び事細かな法制度で、国民の一体感を表現しようと試みられます。国柄を、法制の独自性で表現し、保守しようとしています。歴史、風土に根ざす法体系が国の心のプロフィールと言えます。現に、国家は法制によって人々の活動に枠を設け制限し、場合によっては禁止します。
たとえば、営利活動よりも大切なものがあると、人びとに警告してきました。
大切なものとは、倫理、道徳、美意識に照らし、守るべき価値ありと判断されたもののことです。
倫理や美意識は、人の心の中のものです。教育をほどこされ、生活の中で日常生活の中得られる情報から、形作られます。
世界と接する中で、結晶化せる感覚であるならば、人々を取り囲む景色は、かけがえのない教室と思えてきます。

あたりを見回せば、荒れ模様。新自由主義とやらがもてはやされています。自由を振りかざされ、私たちは、自分たちの領域にたてこもり、思い出を大切にだきしめることで、しのぎきれるでしょうか。脱落を余儀なくされるものもあり、小さなシステムを守るのも大変です。
自由貿易は、倫理とか伝統、文化を守る法制度を乗りこえようとします。規制に悪名をきせ、経済発展、投資拡大のさまたげを取り払い、もうけ話の邪魔を許しません。
規制は、社会が保持してきた、さまざまな世界観、守らねば失われかねぬ、社会のアイデンティティーに関わっています。
新自由主義者は、国家のアイデンティティーを骨抜きにします。
国家は、世界経済に身を投げ、のみこまれ、地上から消えてゆくかと思えば、かえって、根拠を失ったナショナリズムに固執するのです。
空ろな題目を繰り返しながら、どこへ向かうのでしょう。
新自由主義者は、姿をくらまし身をひそめます。ナショナリズムは個人の自由を嫌うからです。
かつて、明治維新に伴う秩序、枠組みの破壊は、この国を極端な国家主義へと向かわせました。
今、新自由主義は、人心の拠り所を破壊し、人々の心を国家へと誘う先棒担ぎをしているのです。
国家が、国家主義におちいり、開き直れば、堕落は底なしになります。愚かさを偽装し、維新ゆえに国体をほしいままにできると思いこむようになります。
カルト国家の出来上がりです。

都市から遠く離れた周縁部で進行する、退廃と退却の動きが反転し、都市からのあらゆる種類、相当規模の移転が起こり、村々が活気を取り戻し、ここで瑞々しい感覚が、世界と接する変哲もない当たり前を望めないならば・・・
「あとは野となり山となり」この国の命運も尽きます。
国は、争って守れるものでも、景気が作り上げるものでもありません。

近頃、国の財産目録作りが進んでいます。
遺言は誰のために遺されるのでしょう。
並行して、歴史は、書き換えられ、糊塗隠ぺいが横行し、うわべをとりつくろいます。
疑うことを許さぬ前進は、善きものを道連れに断崖へと急ぎます。
その縁に遺言状は置かれます。
願わくば、よきものをかくまい、養生させ、未来へと送り届けたいものです。
追っ手をかわす小道は、やがて、張り巡らされた網となり、時空をこえる迷路は強度を増し、岩盤となります。
トップダウンで打ち下ろされるドリルを受け流し、再生の糸口、まだ癒えぬ傷口も守りたいのです。
景色の片隅で、つっくろい続ける人がいて、その周りで、少なからぬ人々が、試行錯誤を始めているのだと思います。
人は、国家のために生きるのではありません。世界と関わり生活する結果として国体を作るのです。
いかがわしい国家にあって、国体はただ経済活動の場だと思われています。国体を自分たちの領分、縄張りとしか考えません。
日本国が、福島原発事故を起こし、国体をひどく傷つけても、原発を止めることができず、原発を商うさもしさは、このようなことなのでしょう。
心と体が、不可分なのは、国に関しても同じです。
国体が病み傷ついた今、心も同様です。
法、憲法とて、病人にふさわしいものへと改変されるかもしれません。

人々が、普通に思い、感じることが言葉にされないと、つまらぬ言葉や作文に言い負かされ、言いくるめられてしまいます。
すでにある立派な知恵が、いつまでたっても、中身のない言葉に抗えない歯がゆさをずっと感じてきました。
定点観測しながら、せめて見えるものを整理しようとしてきたのですが、近ごろでは、定点に立ち続けるのも楽なことではありません。
地べただけ見ておればよいものを、と言われますが、遠くをみるのも百姓の仕事のうちです。

人里の風景は、人々が感じ、考えたことを、起伏の上に刻み続けた知恵の結晶です。
忍苦よりも、あこがれが成し遂げた仕事です。
世界に寄り添い、愛し愛されたいという欲望のなせる技です。人は、世界の外部でも中心にでもなく、その中に混じり合う一要素です。
私たちは、ハチがあこがれ飛び立つように、クワを振るい、種を播くのです。
心のままに欲し、挑むことが許された世界で、自生する草木に並び、今を甘んじて生きることができるはずです。

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投稿情報: 2014/04/04 | 個別ページ | トラックバック (0)

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「菜園たより」2014年2月4週号

見出しは、「1日1本、3日で3枚 /  野菜セット出荷を3月から再開します / 少しずつ少しずつ」です。

2月4週号のPDFファイル

移動した鶏

上の写真は、全壊した鶏舎から、柱をジャッキアップして修復した別の鶏舎に移って、安心している、うちの鶏たちです。

前記事で、「被害状況の写真などは、近々まとめて個人ブログにアップしたいと思っています。」と書きましたが、余裕がありません。

フェイスブックの、自分が管理している「根本党の会」のページに、写真入りで近況を載せてみました。
https://www.facebook.com/konpontou

昨日(3月1日)までに、山の物置ハウス(元鶏舎)の解体と、里の畑のトラクター・資材ハウスの崩壊部分の解体が終わりました。全壊鶏舎の解体は、まだまだかかります。くぎ抜きが大変・・・
あと、自宅のテラス?の波板が破損し、留め具が雪と一緒に外れて落ちて、ボロボロ危険なので、取り換えなくちゃいけなくなりました。
機械や資材を入れる物置が、畑で必要です。どうやって建てるか、夫が検討を重ねています。
借地なので、物置もハウスか単管でやるしかないんですね、新規就農者の多くは。

 

投稿情報: 2014/03/02 カテゴリー: 菜園たより(隔週発行) | 個別ページ | トラックバック (0)

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「菜園たより」2014年1~3号

3つまとめてアップします。

2月14日から15日にかけての大雪で、2週間出荷を休みます。詳しくは、最後の2月3週号を見てください。除雪や修理、補強などの作業と、お客様への連絡をしています。画像はクリックすると拡大します。

被害状況の写真などは、近々まとめて個人ブログにアップしたいと思っています。

 

★2014年1月1週号 の見出しは、「あとは野となり山となる / 居場所をつくる」

1月1週号のPDFファイル  寒中見舞いiro

 

★2月1週号の見出しは、「どすこい、どすこい / 残したいものは・・・」

2月1週号のPDFファイル  つばさ

 

 ★2月3週号の見出しは、「被害状況 / お休みさせてください」

2月3週号のPDFファイル  鶏小屋内側

 

 

投稿情報: 2014/02/18 カテゴリー: 菜園たより(隔週発行) | 個別ページ | トラックバック (0)

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「菜園たより」2013年17号と最終号

11月5週号は、年末年始のお知らせです。

2013年11月5週号のPDFファイル

 

2013年の最終号は、「おかげさまで 20年」

最終号のPDFファイル

開拓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、「里の畑」の開墾中の1場面です。5反ほどの荒れた桑畑の桑の木を、何回かに分けて、近所の人に頼んでパワーシャベルで抜いてもらい、燃やして、畑にして行きました。

北斜面で、形も変形で、日当たり土質、どれをとっても、恵まれた畑ではありませんでしたが、ハウスも建てて、地主さんの好意で使っていなかった井戸から水をとれることになり、育苗ハウスの水を現地調達できた時はうれしかったです。最初は、手こぎの井戸。少ししてから、電気をひいてポンプを付けて蛇口をひねれば水が出るという文明開化。

ハウスを増やし、畑を増やし、機械を増やし、子育てのため?「とがりきった岬へ向かう道」を歩いてきた私たちに、3・11が与えた衝撃は大きいものでした。2年半、右往左往してきましたが、ここにきて、「反権力」を旗印にすることをためらわず表明するしかない、と思っています。ま、言い方はいろいろあるでしょうが。

では、皆さま、今年もよろしくお願いいたします。

 

投稿情報: 2014/01/01 カテゴリー: 菜園たより(隔週発行) | 個別ページ | トラックバック (0)

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守りたいのは秘密?

特定秘密保護法とTPPなどについて、「寄居町耕す人の会」ニュース13号(2013年10月26日発行)に、晃が寄せた一文を掲載します。

下の画像は、T・Yさんが描いたニュースのさし絵です。「寄居町耕す人の会」とは、2011年の夏、3・11をきっかけに、自然エネルギー推進・原発国民投票実現を願う地元の人々によって始まった会です。(寄居町議会への請願についての詳細は、個人ブログのこの記事やこの記事、この記事などにあります。) 現時点での最大課題は、「イノシシ対策」です。(11月28日)

コスモス

 

 守りたいのは、秘密だと言います。


 中身が空っぽと知れる証、汚れていると教える数字、裏切り背信の証拠を秘密にする国となろうとしています。それから、米国にならって、国民を隅々まで監視する国になろうとしています。法や規制に守られて横たわる"岩盤"には、ドリルで穴をあけ、企業の活動がたやすく浸透するように変えるのだと言います。


 強いものが牛耳る、経済、市場原理、が第一、というわけです。手に手を取って、思い思い立ち並び、迷路を作り上げ、企業利益優先の投資家に待ったをかけて立ち止まらせるのは、障害で、差別的で、けしからん、ということです。


 私は、地域の生き生きした営みを取り戻したいと願うだけ。落ち着いた当たり前の生活を皆で実現したいのだけど。「ぬくぬくと昨日までの当たり前にしがみつくなまけ者」と言われ、「戦う! 勝ちに行く! 攻める!」と叱咤するお偉方の言ってること、「積極的平和主義」みたいに、意味わかりません。


 よく、経済がよくならなければ、と、いわれます。私は、たとえば、幾筋もの小さな流れが、地域をうるおし、それらが集合し、大きな流れを作り蛇行する、その流れから取り込まれた水が、今度は広大な地域の人々の生活をうるおす、というありふれた自然を手本としたいと思います。が、実際には、吸い上げられかき集められた流れが、一直線に投資家や大企業に向かって流れるように改修されていくのです。

 緩和しろ、撤廃だと、厄介者扱いの"岩盤"は、見方を変えれば、歴史に学ぶ知恵とか、伝統、遺産に関わる、この国の独自性、個性そのもののことです。それらは、映し出された、この国の人々の心に関わるもの、と考えるべきです。
 生活の中の一つ一つの当たり前、なんてことない私たちの日々の仕草と、その所産こそ、私たちが目にする風景です。太古から、人々は文物をたずさえ、海山越えて往来し、新しいものが受け入れられたり、忘れ去られたりと、少しずつ景色は変わってきたことと思います。でも、大きく変わった景色の中にも、不変のものがあります。それらが、私たちの原理とか生きる掟といったものを、教えています。


 耕す会の活動は、こんな約束を守ることだと思っています。当たり前にやっていくのはそれだけで大変です。当たり前の生活をする個々の人間は、まこと小さいです。それでも、そんな生活のほかに、どうしても必要なものなんてあるのでしょうか。


「いやな時代になった」などと他人事のようにぼやきたくないものです。(伊藤 晃)

 

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投稿情報: 2013/11/28 | 個別ページ | トラックバック (0)

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JAへの手紙~「これでいいのか?! TPP 12.8大行動」よびかけ

~~~以下は、JA全中に対して、「これでいいのか?! TPP 12.8大行動」への賛同・参加を呼びかけて、

https://www.zenchu-ja.or.jp/contact/form

より、晃が送信した文章です。同様のものを、JAさいたまにも送信しました。

また、当サイト管理人の泰子も、全国農協青年組織協議会(略称:JA全青協)

https://ssl2.another-staff.ne.jp/ja0006/contact/index.html に、別の呼びかけ文を送信しました。

どれも、今日(11月24日)までお返事はありません。

 

下の画像は先日、

「TPP参加交渉からの即時脱退を求める大学教員の会」のページで公開されていた、当日のチラシです。

S2daikousin_01
 

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 私は、JAふかやの組合員です。2年前より、TPPの危険性を、折に触れ、お客様である消費者に向けても発信してきました。TPPは、国民皆の生活に関わる大問題、国民主権、わけても食糧に関する安全と安定確保の主権を守れるかどうかの瀬戸際に立たされているのだと、訴えてきました。医療、保健、雇用、表現の自由と国民主権全般にわたる破壊をもたらす協定には、立場を越えて反対しようと訴えてきました。
 そして、JA全中の情報発信、なかでも新聞広告で幅広く読者に訴える熱意に、組合員として、励まされてきました。

 TPPは、一部企業、投資家を除いてほとんどの国民に不幸な未来を約束しています。ささいな変更、ほんの少しの獲得があっても、TPPが標榜する、新自由主義の破壊性に、今後も妥協の余地はありません。

 さる3月には、職業横断的なTPPを問題視する会(「いやだね!TPP 寄居町連絡会」http://notpp-yorii.jimdo.com/)が、ここ寄居町でも立ち上がり、二度の講演会を催しました。6月の講演会では、JAふかやの後援を受けたり、JAふかや主催の勉強会に参加したりと、ともに歩んできました。

 TPP参加加盟を取り巻く国内情勢は、一段と不穏な様相です。TPPの秘密性を補完する、特定秘密保護法案を政府が打ち出すに至り、未来の命運をかけた闘いの場となったのです。共に闘おうと訴えてきた私たちは、けっして退いたり前言を翻したりと、違いを越えて共感し共に闘う仲間を裏切ってはならないと思います。

 JA組合員として、農業者として、JA全中に、大事な要望があります。
 来る12月8日、「これでいいのか?! TPP 12.8大行動」があります。詳細は、http://tpplawnet.blog.fc2.com/blog-entry-8.html

 この趣旨に賛同し、中心的な役割を果たしていただきたいと切に願います。志を貫かれ、早急なる対応がなされんことを希望します。

 2013年11月13日 伊藤晃

 

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投稿情報: 2013/11/24 | 個別ページ | トラックバック (0)

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「菜園たより」2013年10月・11月

ほぼ月刊(秘密保護法とTPPのことで、頭が半分占められている・・・)の、「菜園たより」を二つアップします。PDFファイルのリンクをクリックして、読んでみてください。

☆10月2週号の見出しは、「どこも運動会 / 消えゆく養鶏 / 料理メモ~サツマイモのかき揚げ」です。

写真は、障害物競走に勝ち残った、三尺ササゲです。

三尺ササゲまがり

10月2週号のPDFファイル

 

☆11月2週号の見出しは、「ヘビの知らせ / 10月のまとめ / 料理メモ~まるごとキャベツ」です。

写真は、仙台の友人の息子さん(左端)とうちの息子と、うちのだんなが、ラッカセイをはずしているところです。

けいた1

11月2週号のPDFファイル

投稿情報: 2013/11/05 カテゴリー: 菜園たより(隔週発行) | 個別ページ | トラックバック (0)

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「菜園たより」2013年9月2週号

9月2週号の見出しは、「勝ちに行くほど、いつの間にか、深い闇を背負う / 栃木県茂木町から訪問あり / 三尺ササゲは、油で」です。

9月2週号のPDFファイル(174KB) 



茂木町有機農業研究会の皆さんとの写真

DSC03893

 

投稿情報: 2013/09/20 カテゴリー: 菜園たより(隔週発行) | 個別ページ | トラックバック (0)

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「菜園たより」2013年8月ふたつ

ほぼ月刊になりつつある、「菜園たより」です。

「8月1週号」の、「すごろく遊び」については、お客様のSさんから、「あんなに大変な状況の中、あんなに面白い菜園たよりが届くなんて思ってもみませんでした。本当に素敵なことだと思います。」と、ほめていただきました。

「8月5週号」は、それを聞いて力が入ったのか、あまり面白くできませんでしたが、よろしければ、読んでみてください。

写真は、「ニャー公のお祈り」。昔、こどもにやってもらったように、もういい加減降るなっていう確信があるときに、使う手です。そうすると、お祈りの力を信じるようになる?からです。

にゃーこうおいのり

◆7月29日発行の「8月1週号」紙版のPDFファイル↓

見出し「ハチに刺されて、1回休み ほか」 

 2013年8月1週号(234kb)

 

◆8月26日発行の「8月5週号」紙版のPDFファイル↓

見出し「早朝の畑で、舞い踊る / 夏バテしていませんか? / <料理メモ> ~ナスのかば焼き」

2013 年8月5週号(156kb)

投稿情報: 2013/08/27 カテゴリー: 菜園たより(隔週発行) | 個別ページ | トラックバック (0)

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