「高潮期」と「低潮期」が、ほぼ28日周期で、心身に巡ってくる。
高潮期に入ると、僕はあまり眠らないで活動を続ける。新しい工夫がノンストップで生まれてくる。絶えず何かをいきいきと、ハイボルテージで生みだしているとしっくりくる。よく徹夜もする。心身がゆるんで倒れるまで活動を続ける。
低潮期に入ると、排泄が活性化して、睡眠時間が倍増する。いろんなことをしみじみと受け容れられる心地になる。いま日本では非常時なので、体にまったく力が入らないまま、念の力みたいなもので、ふらふらと活動を続けていることもよくある。
低潮期であっても、高潮期であっても、じっと考え事をしている時間はほとんどない。脳波が瞑想状態になっているときも、何かしら社会とつながる活動を続けている。想い浮かべて考えるときは、踊ったり書いたりしながら考える。
ヴィジョンを抱いて、やむにやまれず、活動を続けている。自然のいのちを社会のなかでマックスに活かそうとして活動している。
どうして眠らないのか。どうして一人になっても眠らずに、創作活動を続けているのかというと、どうやらこれは収入のためではなく、どうしてもなんとかしたいことがあるからだと思う。伝えたいことがある。もちろん学びたいこともたくさんある。創作現場で、創作のあいまに、いろんな人から学んでいる。
僕は余力を残さずに、毎度、力を使いきる。体はいつもひょろんとしていて、筋肉はふにゃふにゃだ。皮下脂肪はほとんどない。あいだを置いて友人と会うたび決まったように
「痩せた?」
と訊かれるのは、こんなに痩せている40代が、先進国には少ないからだと思う。毎度、新鮮に、痩せっぷりを再認識されているのではないかと思う。
損得をすっとばしているので、我が身の生活のゆくすえは読めない。日本の一般常識からみて、はちゃめちゃな、バカなことをしているなあとよく思う。
いくらかは緩め方・休み方も覚えたので、過労死する心配はないと楽観しているけれど、同時にいつ野たれ死んでもいい覚悟はしている。
熱心な同志たち、支えてくれる人たちがいて、励ましてもらえる。
おれもまあ諏訪人だでな、やれるとこまでやろうと思うだわ。
真とか花とかに夢中になっている人は、好ましい。
特定の人たちの人気を得ようとか、私の才能をみとめさせようとか、ここで一発得しようとか、おれのすごさを見せてやるとか、そういうことをすっとばして、真とか花とかに夢中になっている人は、傍目にもすごく好ましい。手を携えて睦みあっていける気がする。
ひろく世のなかを感じで、少しでも良かれと願って暮らしている人は好ましい。支え合い、励まし合っていると実感できる。
いろんな国から、心のこもったメールを頂く。あれから毎日みっつの術を続けている、最近こんな集いをした、自分はこんなふうに変わった、いつもあなたのことを思い出している、最近どうしているか、また自分たちの国へ来てほしい、あの国にもぜひいってもらいたい、そういった内容のメールが多い。
そうした一方で僕の活動は、人に複雑な情を抱かせてしまうことも多い。人を不審がらせたり、ひそかに怒らせたり、心に炎症や排せつを起こすような結果もまた、もたらしてしまうことがある。これだけはどうしてもやむをえない。
師匠の大野先生は、決して本人が気づかないように、反発や怒りなしの、炎症や排せつをうながす方だった。僕は未熟なのだ。来し方をかえりみて、しょげてしまうようなことも多い。すまなかったなあ、すまないなあと思う。
それでも活動をやめないのは、そういう心の炎症や排せつを、体の炎症や排せつと同じように、プロセスとして大事なこと、と感じているからだと思う。「プロセス」というのは、時の過ぎゆくなかでの過程。ものごとの流れゆき・進みゆき。
たとえば、怒り、というようなかたちで炎症を起こさないと、心に溜まった毒素を排泄できない場合もある。毒素を溜め込んでいのちを失うよりは、排泄、というプロセスを経たほうがいい。
生命が新しくバランスを取ろうとしているときには、どうしてだろう、かならず順を追って、一連のプロセスが起こる。
「過敏になって、炎症を起こして、毒素を排泄して、弛緩する」
というプロセスが起こる。そのあと、からだとこころは、新しいバランスを身につけ心得て、ヴァージョンアップする。底力が湧いてきて、いろんなことが鮮やかに美しく感じられるようになる。
療術を受けたあと、このプロセスが生じることがよくあって、東洋医学ではこれを「めんげん現象」などと呼ぶ。長く療術活動を続けてきた人は、人が癒されていくプロセス=「めんげん現象」のいろんな規模、いろんなかたちを、体験的に心得ている。
生命は、大別して次の4つのプロセスを経て、ヴァージョン・アップします。
1 過敏 おもに神経と皮膚、表面と芯に来る。
2 炎症 熱を出したり、ずきずき痛くなったりする。
3 排泄 お腹をくだしたり、臭い汗がたくさん出たりする。
4 弛緩 心地よくゆるんでどこにもリキが入らない。
いつもこの、4つのプロセスを経て、生命はバランスを取り直す。
人の生命=人の体と心がこうなっているせいか、歴史社会の流れも、文化芸術などの創造過程も、どうやらこのプロセスの法則を内蔵し、体現している。
このプロセスが目立って体にあらわれると、いわゆる「病気」と呼ばれるような症状が起こる。療術活動は本来、このプロセスを滞りなくし、ときにすみやかに経過するよう促進させるものだった。「復元」とか「元どおりの事なかれ」ではなく、すみやかなヴァージョンアップを、復興を目指すものだった。
命や器官が欠損することがないかぎり、たいていは、あわてる必要もなく、おびえる必要もない。おびえあわてて、へんな精製薬を使い、プロセスを止めると、心身のヴァージョンアップは次回まで延期されて、いやな副作用ばかりを残す。いのちは、活動を妨害されると、すねる。
流れはいつも、流れてゆくための場を求める。
プロセスは必要なのだ。
困った人たちが、困ったことをしている。
せっかく熱を出しているのに、呑み薬で炎症を止めてしまう。
せっかく神経から皮膚へ出てきた毒素を、塗り薬で体に戻してしまう。
せっかくお腹を下しているのに、下痢止め薬で止めてしまう。
せっかく体が力をふるって、毒素を排泄しているのに、なんということだ、あなたは体に悪いものを食べて吐いたとき、ゲロをもういちど口に戻して食べたいと思うだろうか。炎症や排せつを促進させることなく、そのプロセスを薬で止めている人たちは、それと同じことをしているのだけれど……。
そうしないとたちまち命をなくすのなら、もちろん生きながらえるために薬を摂ったほうがいい。
外側から薬のたすけを借りず、自然治癒力でヴァージョンアップした生命は、免疫力が盛んになり、しなやかになる。免疫力が盛んになって心身がしなやかになると、いのちに適った環境を、育て、築いていく力が、生まれる。
いのちの復興にはどうしても、そうした、しなやかないのちの力が必要になる。
製薬会社の遣い走りみたいなお医者さんたちが、医療の名のもとに、悪循環を促進していることも多々ある。
やはり人は死ぬのが怖くて、慌てるのだろうか。
つい慌ててしまって、金を散らしたり、人のからだを意識の奴隷あつかいしたりするのだろうか。長い目で見れば悪循環を起こす方へ逃れていって、その場しのぎ一時しのぎでホッとしたいのだろうか。楽に良循環させる方法が、手元足元にたくさんあるというのに……。
美容のありかたを勘違いしている人も、このごに及んで、まだたくさんいる。
美しいこころが内から輝いている人は、本当に美しい。
美しく見せたいだけ人が、外から肌に塗り込んでいるものはなんだろうか。毒素たっぷりの化粧品、あるいは高価な化粧品だけではない。毎日、石鹸やシャンプーを皮膚へ塗り込み、皮膚や神経をぼろぼろにしてしまっている人たちがいるのだ。
僕はもともと、虚弱児だった。物ごころついたときには、何も食べられずひもじくてたまらないまま、病院のベッドで点滴を打たれていた。ぜんそくで、すぐに気管支炎になる。すぐに熱を出す。自律神経失調症。消化機能障害。蓄膿症。胃潰瘍・十二指腸潰瘍。弱視乱視。吃音。
そうしてひどく皮膚が弱かった。すぐに湿疹が出たし、アトピーもやった。
ある時、はっと気づいて、石鹸をほとんど使わなくなり、歯磨ペーストも使わず、シャンプーも使わなくなった。昔の人たちのように、通常、石鹸は、一日に一度も使わない。頭 皮も顔も手足も性器も、からだのあらゆる箇所を、たわしで洗っている。
そうするようになって以来、皮膚の免疫力はかなり強くなった。皮膚の回復力の速さには自信がある。活動上の不摂生を続けていても、今のところ肌はすべすべつやつやだ。
弛緩。
過敏。
炎症。
排泄。
そしてふたたび、過敏。
いのちは四季のように経巡るのだ。
新しいバランスを復興する4つのプロセス。この4つのプロセスを経て、ヴァージョンアップが起こる。このプロセスを経て、今までよりもっと大きなバランスを取れる人になる。
こころに生じることでいうと、たとえば、ぐったりやる気がなくなったあと(弛緩)、そわそわしたりいらいらしたり(過敏)、むかついたり腹が立ったり憎んだり(炎症)、泣きじゃくったりお腹をくだしたり(排泄)という進みゆきになる。
これは呼吸と感情の、喜怒哀楽サイクルのうち、「怒哀楽」に相当する。
生命がこのプロセスを経ていると、喜怒哀楽の「喜」にあたる、かつて経験したことのない大歓喜、超悦楽が巡ってくる。実はそれだけが喜ばしいというわけでもなく、プロセスまるごと喜ばしい。
炎症と、排泄と、弛緩。怒・哀・楽。
いずれもよく感じて、よくプロセスを味わってみると、自然の必然ならではの、心地よさがある。こころの持ちようによっては、このプロセスを、おおいに楽しむことができるのだ。たいていの奥芸術家は、このプロセスをおおいに楽しんで生きている。
この、いのちのプロセスをまるごと愉しんで生きている人たちが、社会に受け容れられたら、これほどの喜びはほかにないだろう。シャマンというのは、このプロセスを熟知して、このプロセスを扱う人たちだった。
世間からみればたいへんそうな人生を、大きく愉しんでいく伝統が、日本には昔からあった。
「お互いみんなで感じ合い、どんなこころもすべてを受け容れ味わって、おたがいになごみ愉しむ」
こうした日本人の情調は、この宇宙に存在する現象のうち、もっとも美しいことかもしれない。
宗教とかで押しつけられて、しなきゃいけないと思って、頑張ってそうしているのではなく、ありのままに、そういうことを味わい愉しめる民がたくさんいるのだ。そういう民が増えたのも、たくさんのご先祖さまたちのおかげだ。
頸椎二番やみぞおちを緊張させて、軍隊式奴隷式の動作をするほどに、このかけがえのない情緒は失われていく。
この情緒の伝統はまだ、日本の到るところに残っている。ポピュラーなところでは、山田洋二さんの映画に出てくる、フーテンの寅さん(渥美清さん)なんかはそういうキャラで、今なお世界中でたくさんの人から寅さんは愛されている。
そういうことを、なんと芸術にしようとした人たちが、日本にいるのです。川端康成、黒澤明、山本周五郎、山田洋二さん、宮古島の棚原玄正さん、諏訪の小口大八さん、といった方たちが、日本にいるのです。しかもそういう人たちが、大衆的に、人気があるのです。
日本文学みたいな、情緒ゆたかな、人間味あふれる、無限極微で自由放逸な繊細深遠は、ちょっとそこらの西欧文学には類がないのです。あるがまま、おもむきふかく、はてしなくきめこまかく、気ままなるうえに気のおもむくままにて、こまやかなる奥ゆかしさ、などと申しあげたらよろしいのでしょうか。
こんな文化がほかにあるだろうか?
僕は日本の伝統文化の大ファンで、日本人に生まれて諏訪ことばを母語とすることができて、本当によかったと、あらゆる神さまに感謝したい心地です。
一言でいえば、世のなかの仕来りを大事にしつつも、生命のプロセス全部を、まいどまるごと楽しんでしまう。
常に変化している生命現象を愉しむのだ。
最近のちょっと汗ばむ蒸し暑さがまた、たまらなくいいのだ。
一見苦しげな創造活動が、当事者にとって総合的に心地よいのは、いのちのプロセスをまいどまるごと味わいながら、全力で生きられるからかもしれない。幾度となく「過敏・炎症・排泄・弛緩」というプロセスを繰り返すうちに、螺旋的な進化というのか、だんだんに、さっぱりしていて奥ゆかしく、人情たっぷりで屈託がない人に育っていけるのかもしれない。けっして一人では、やらないでください。
命はいつも、新しい環境に適応して、新しい大きなバランスを取ろうとしている。
たとえば今まさに、日本の人たちが新しいバランスを取っている。仙台で暮らす若い人たちもバランスを取っている。
ほぼ毎日やってくる余震のなかで、震災後のバランスを取ると、足元がいつまたゆらいでも大丈夫だという、覚悟みたいな底力が生まれてしまう。精一杯生きていこうという底力が生まれる。おそろしい状況のなかであっても、思いきり、人間らしく、人間味たっぷりに生きていくことができると、人と人のあいだに信じあう気持が湧いてくる。
損得とか、勝ち負けとか、上下差とか、愛憎とか、そういうレベルを超えて、おもわず人とこころが通いあってしまうのだ。
ただでさえ、たいへんな状況なのに、人とこころが通いあうと、今まで自分が見ないようにして無視したり抑圧したりしてきたものを直視せざるをえなくなり、たいへんでたいへんで、もう泣くしかないときもある。
そうしていのちは、ここに現に生きているいのちは、このプロセスを、愉しんでくれているのだ。生きているかぎり、いのちは喜んでいる。
プロセスの楽しみ方を身につけたほうがいい。
からだの脅えを捨てたら、多少はおびえていても先に進んでいける。ふたたびプロセスの流れに乗って、ムードとしては上昇していく感じの、いのちの良循環、らせん上昇活動を愉しんでいける。
僕だって、本当に悲しい時は、骨盤がゆるんでしまって、腰が抜けたみたいになって、よろよろ歩きになってしまい、やがて倒れる。けれども、そこで炎症を起こして熱をだし、大いにお腹をくだし、大いに泣いて、それからまた死体みたいな状態で、命がけで突っ立って、世のなかを歩きはじめる。
切ないこと辛いことはたくさんあるのだ。
されど腰ふたたびすわりてのちは、ともはらからをなくす哀しみはもとより、明日のたつき、宵越しの悲恋など、こころのわずらいを朝(あした)までもちこすは益なきことなり。
滞り、澱み、固まってしまうと、生命は喜びを失っていき、苦しみのサイクルにはまる。ほとんどの人災は、そのようにして起こっている。
そうした実感に押されるようにして僕は、日本の伝統の心身術を、整理工夫をこころがけながら、ちょっと切ないおもいもしながら、世界中の人にお勧めして廻っている。
プロセスに注目していくと、いろんなことがシンプルに分かりやすくなる。どうしたら改善できるか、目安もつけやすくなる。自然生命に、凝り固まったものは、ひとつもない。すべてが大きなプロセスのなかを流れてゆく。
まず、人間にとって、美しいこと、良いことに注目してみる。
花を見て美しいと思う。好きな人に触れて感動し、この人が生まれてきてくれて本当に良かったと思う、そうしたプロセスに注目してみる。
そうすると、わかってくることがある。
良いこと・美しいことにはすべて、次のような促進作用というか、効目があるらしい。
1 じっと過敏になったままを、炎症(動揺)へとうながす。
2 炎症を起こしたままを、排泄(放散)へとうながす。
3 排泄しっぱなしを、弛緩(楽にゆるむほう)へとうながす。
4 弛緩しっぱなしを、いきいき敏感なほうへとうながす。
自分の体感としては、「いきいき・のびのび・しみじみ・きらら」を繰り返していく感じ。
「きらら」から「いきいき」へ。
「いきいき」から「のびのび」へ。
「のびのび」から「しみじみ」へ。
「しみじみ」から「きらら」へ。
こういうオノマトペーで身ひとつの感覚を表現していても、相手は意識にとどめてくれないし、その場でワイワイとなるだけで、世のなかはやや、動きしぶる。「のびのび、きらら」などと言っていても、きれいごとになってしまう気もする。用いる言葉が、感覚的なポエムに片寄るにつれて、こころの盲点も増えてしまう。だいいち、「のびのび、きらら」なんて、海外へ行くと、我ながら意味不明だ。
そこで「弛緩・過敏・炎症・排泄」と、西欧語訳できる観念語でクリアーに伝え、わかりやすい例を探って、そこに附録するようになった。
西欧言語を母国語あるいは第2外国語とする、科学者・医学者などに、「弛緩・過敏・炎症・排泄」と説明すると、みんなすんなりわかってくれる。
ゆったりゆるんだ心地になる。それからやたらと敏感になってきて、表面がそわそわする。コアなところが熱くなるにつれて体じゅうが熱くなってきたりする。出そうと考えたわけではないのに、どんどん出てきてしまう。からっぽになって、のびのびきららとゆるむ。
お。お。これは。なんということだ。様ざまな病のプロセスや、創造活動のプロセス、力持ちのエゴに巻き込まれた庶民の反応プロセス、などを総合的に語っていたつもりだったのに、声に出して語ってしまうと、体感的になにやら艶めく。
やはりいのちは、こうしたものなのだろうか。
生命は、プロセスを経て、新しい現実に即し、新しい現実を生きられるようになっていくようだ。プロセスを止めてしまうと、生命は、新しい現実に即して、常に新しく生きていくのが難しくなる。
どうやらこれは、気のせいではない。よく振り返って、よく観察して調べてみると、本当に、いのちにかかわること、人に関わること、人類数十億人みなおなじく、プロセスに関わることはみんな、どうやらこうなっている。
プロセスをほどよく促進するほうがいい場合もあり、プロセスをほどよく遅らせるほうがいい場合もあるので、あまり焦っても仕方ない。
いったいどういうシステムが、このプロセスをいのちに与えてくれているのだろう。いのちは不思議だ。空気さん、ありがとう。お水さん、ありがとう。
たいへんなことは、たくさんある。つらいことは、たくさんある。
永いあいだ過敏だった人、永いあいだ炎症を起こしていた人が、次のプロセスへ進むとき、かなり複雑な感情が生まれることも多い。戸惑い、驚き、恐怖、敵意など、僕自身はもちろん、誰しもこれまで、いろいろと身に覚えがあると思う。
生命力が盛んにはたらいているときは、いろんな想いが、こころを吹き抜けていく。
プロセスの途上、怖いときは本当に怖かったし、許せないなんて思ったときは本当に許せなかった。後になってみれば、すべて若気の勘違いだったのだけれど。
自分のこころを勝手に投影してごめんなさい。おなかを空かせて、こころを空かせて、それをお父さん、お母さんのせいにして、怒ったり泣いたりして、ごめんなさい。お父さん、お母さん、ありがとう。
「やわらかく、流れのなかで生きていこう」
「欠けていてさみしいばかりのところがないように……」
「固まって詰まってしまうところのないように……」
昔からアジアの各地で、人生をきわめた老賢者たちが、そういうふうに説いている。人間情報センターみたいなおじいさんたちが、そういうふうに説いている。
「柔らかく、変わっていきなさい、そのほうがあなたも、みんなも、生き心地がいいよ」
そういうふうに生きるのがまた、たいへんなのだ。便利になったぶん、まもらなきゃいけないものが、原始時代に較べてややこしく増えすぎた。まもるエネルギーで精一杯で、 もう新しく変わっていく力がないという人もいる。
そういう環境のなかにあっても、柔らかく変わっていくのだ。そうなると全身全霊で生き尽くすしかなくなるのだ。
いや……やはり、このほうが、楽かもしれない。いちどかぎりの人を生き、やがていつかは死んでいくのだから。
生命の仕組、ことに免疫のメカニズムを、もっとしっかり学びたいと思う。
創作の現場だけでは「おもいてまなばざる」形になってしまってあやうい。おもいが強くなるほどに、まなぶ必要を感じる。
学ぶというのは、ウノミにすることではない。受け容れて、自分のこころとからだでたしかめるのだ。本当に大切なことを、心得、身につけていくのだ。
僕は学ぶのをやめることができない。いつも二十冊以上の本をトランクに詰めて旅をしている。
睡眠時間3時間の生活をしながら、いつどうやって本を読むのか。厠(かわや)で、内臓や排泄器を感じながら、読むのだ。そうすると要らないものを排泄していくエネルギーも高まる。
どんなにしっかり学んだことも、それがまだ単なる知識であるうちは、役に立たない。現実の現場では、そういう知識はいったん捨て去る。
1000くらい得た知識のうち、みっつくらいが、「生きた知識」として残っていく。そういう知識は一生役立つ。
そのなけなしの知識さえ、一人の相手のまえでは、何の役にも立たないことが多々ある。
原則をつかんでいても、人に応じて、場に応じて、毎回、どうしたらいいのか、やりかたは変わっていく。どうすればいいのか。
ノンストップで、新たに見出していくしかないのだ。
生き心地よくなるには、中道をいくのがいい。
「向こうのこういうところが間違っているから、やはり向こうが悪いのだ」などと意識だけで処理して、怒りや悲しみを心身に溜め込むと、プロセスを止められて、生命が苦しむ。
考えや、感情や、生き方を、こだわって固めてしまうと、心身が苦しむ。
決めてかかって、ムリしてしまうと、心身が苦しむ。
かたよらずかためず、バランスを取りながら、中道を生きるのがいい。
一生かけて、心得、身につけていく。
生命の自然のしかた従っていくと、自分で勝手につくりあげてきた固定観念なんて、たちまち粉砕されて、あとかたもなくなる。いったんはたいへんだけれど、やむをえない。 明らかにそのあと、生き心地はよくなる。
そうしてこういう社会環境のなか、身ずからすすんで全力で生き尽くすしかなくなり、さらに生き心地がよくなっていく。
生き心地よく中道を生きていくと、世のなかの傍目には、かなりダイナミックで起伏が激しい生き方になるかもしれない。迷惑はかけないようにしたい。こころをあたたかく清めて、こころをふかめていたい。
そういえばある整体師さんが、
「現代の都市で、情報の滝に打たれながら生きていくのは、日々、自動的に修行してしまうみたいなものだ」
そう語っておられた。
各地で、真摯な若い人たちと接していると、このことはすんなり腑に落ちる。
舞台作品では、人間情報が、高密に濃縮される。他者や社会とかかわる意識。生命とかかわる潜在意識。切実な体感。舞台では、すべてが溶けあって濃縮されたかたちになる。
「ものづくり」でもごまかしは効かないけれど、「ことづくり」では全部バレバレになる。舞台に立つ人たちは、全部バレバレで人前にさらされることになる。
生身の「ことづくり」をするかぎり、いやでもそうなる。
どうして、大勢の人たちと、「ことづくり」の活動をしているのか。
この社会に広がっている、大きな根深い欠落をみたし、大きな根深いこわばりをゆるめたいからではないか。
舞台に立つときは、我が身ひとつの、ちいさな欲望から解放されていたほうがいい。ちいさな苦しみからは脱却していたほうがいい。足りないゆえの苦しみは満たし、こわばって固めてしまったゆえの苦しみはゆるめる。そうやって小さな苦しみを卒業してから舞台に立つほうがいい。
すこしでも良い出来事を生みだしていくにあたって、メンバーそれぞれが修行みたいな体験をしてしまうのは、やむをえないのかもしれない。生命のプロセスを促進しながら、まるごと生きることになるのだから。
時どき、コンビニなどのレジで、
「この人がもしも、農事とか、祭事とかをしたら、日本はどんなにかよくなるだろうになあ。どうか将来、チェーン店なんかは持たないでくれよ」
とお願いしたくなるような、素晴らしいエネルギーの持主を見かける。裏ではかならず、勉学とか、音楽とか、恋とかに、夢中になっているはずだ。
何をしていても、喜怒哀楽は四季のように経巡ってくるのだから、どうせならみんな、自分の欲求と、傾向と、能力を、フルに活かせる仕事をしていくのがいい。そういう仕事を身につくていく人が増えるほどに、世界もまだまだ、なんとかなっていくはずだ。
こういう仕事は天職と呼ばれる。
人が恐怖や抑圧をしりぞけ、全力を発揮して生きると、自動的に、世のなかにとって縁起のいい人になっていく。どんなジャンルでもいいのだ。囲みのなかや、ひとつの面、ひとつのジャンルのなかに閉じこもってしまうと、恐怖や抑圧をしりぞけるという大切なプロセスを失ってしまって、全力は発揮できなくなる。
天職を生きよう。名前をつけにくい仕事でもいい。どんな仕事でもいい。収入が減って、エアコンのある部屋でアイスクリームを食べられなくなってもいい。自分とは何か、この世界とは何かをたしかめながら、天職を生きよう。
生命であるかぎり「弛緩」「過敏」「炎症」「排泄」を繰り返していく。
いつでも、このプロセスを経て、新しいバランスをとっていくことになる。新しい現実に即して、新しくバランスを取っていないと、生命は委縮し、壊れていく。
盛大に過敏になって騒ぎ立て、盛大に炎症を起こして騒ぎ立て、盛大に排泄しておびえる人たちもいる。
騒ぎ立てている人たちも、プロセスを経てゆるんでしまえば静かになるものだし、別にどうということはなかったりする。こちらが静かな呼吸を保って、巻き込まれることなく眺めてみれば、相手は体の欲求というか、呼吸の欲求を果たしているにすぎなかったりする。
そういう人たちに対応するには、そういうプロセスをいやというほど経験してきた人たちが向いている。
感情を駆使して子供が大人たちを振りまわすことがあるけれど、これは息遣いがせわしない大人たちにも大いに責任がある。プロセスのまえで動揺してどうする?
経験を重ねていくにつれ、他者をコントロールするために人前でフェイクの涙を流しているような者を楽に見破れるようになり、そうした「来てきて愛してこっちみて」といった欲求への程よい振るまい方も、その場に応じてとっさに出てくる体になっていくだろう。
「ああ、いいプロセスを生きているんだなあ」
盛大な人たちを見ていて、そう感じる。
たとえ我が身に起きた大変動であっても、そうやって感嘆しながら、客観的にプロセスを眺めていることが、最近、よくある。「四十不惑」というのは、このことかと思う。悩みはいろいろ生じるけれど、ベースとなるところでは、まどうことがない。
いちばんの驚き、それは、「こうだ」と思っていた世界像が、自己像が、揺らぎ崩れてしまって、まったく新しい世界が、まったく新しい自分が、あらわれてくることだ。とりわけこころは、広げようと思えば誰しも星空より広いので、自分のこころ、人のこころは、この世のなかで、とんでもない驚異の種となる。
できると聞いてはいたけれど、まさか自分には出来ないだろう、どうせ人ごとだし……などと思っていたことが、実際に出来るようになってしまったときなど、人は至福感を覚える。もちろんそこには、恐怖、衝撃、負担、孤独などもつき従ってくる。
さあ、今日もこれから、倍音声明活元指圧愉気真向法をしよう。
これはいちどにしていることをただ並べただけの名称で、やっていることは、いったんやってみると、すごくシンプルだ。
倍音声明活元指圧愉気真向法。
略して〈まむかい〉。
この略はいま思いついた。
〈まむかい〉は、みっつの伝統の心身術を、相変わらず日本で数百万の人がやっているという「真向法」と合体させて、十五分で全部いちどに愉しめるように工夫したものだ。このほかに、みっつ+よっつほど、細かなところに触れて意識の光をあてるだけで、体は病みから遠ざかっていく。
まず、総合的にシンプルに、生き心地よい、いのちを保つ。そうすると、対処療法めいた、ややこしいことをする必要がなくなる。
からだとこころが病むとき、そこはずっと意識の光をあてずに、ありがとうも、ごめんなさいもなく、無視してきたところだ。いつも体じゅうのために働いてくれていたのに、今まで感じてあげることもなく無視したまま、こき使ってきたところだ。
病んだところに手を当てて、「無視してごめんなさいね」と言う。「いつもありがとう」と御礼を言う。そうやってじっくり感じてあげる。ゆとりがあったら、何をししてほしいか、内密のリクエストを訊いてみる。
そのリクエストを実行すると、なんと病は消滅してしまうのだ。この現象は、現代医療術の最先端において、量子物理学的な観点からも研究されている。
これまでずっとこの体全体を保ってきてくれた処を、今まさに体じゅうが滅びることなきよう痛みを発してくれている処を、
「いやなやつめ、こいつ」
「体から出て行け(この教室から出ていけ、この国から出ていけ)」
などと思うのは悲しすぎる。大切ないのちの一部を、消そうとか、滅ぼそうとか、追い出そうとかしてはならないと思う。
光が当てられ、濁気が抜けて、闇がうすれていくのがいい。
〈まむかい〉は、体のいろんなところへ、意識の光を当てる遣り方だ。
「やりたいことを元気に全力で出来る、からだとこころを育てる」
そんな効目のある毎日の心身術だ。
しかもこれは、基本形があるだけなので、そこから各自がどんどん、自分たちにかなう かたちへ、術そのものを進化させていけるあたりもいい。
どんどん改良してほしい。僕もすこしずつ、改良している。
アフリカにある〈シャマン術国際協会〉のブルキナファソ支部では、早速、ある種の改良ヴァージョンを試しているという。そういう嬉々としたメールが届いた。いったいどんなふうに改良したのか、すごく気になる。三ヶ月後に、わかるかもしれない。
〈まむかい〉などというのはここでの仮の名で、西欧言語圏では、あいかわらず「ハーモニクス・マントラ・カツゲン・ユキシアツ・マッコウホーなどと長たらしく唱えて笑いをとっている。ヨガの先生、武術の先生、コンテンポラリー・ダンスの先生、医学者などにも、たいへん評判が良い。
まずは身につけて試してほしい。ひとりでも多くの人が、こうした心身術を身につけてかつて僕の祖母がやっていたように、習慣として毎日続けていってほしい。出来ることなら、もっと効目がある術を、あるいはヴァージョンアップさせた術を教えてほしい。