日本には、一遍さんがいる。
トルコには、ルーミーさんがいる。
中世の踊る詩人、ルーミーさんは、アナトリア人の誇りである。シーア派のイスラム神秘主義、トルコの神秘舞踊、トルコの宗教音楽、いずれもルーミーさんの後を追い慕ってかたちを整えてきた。詩人としても、類例がなく、素晴らしい。日本の一遍上人と似たところが多い。
学術用語では、神秘、などと呼ばれているけれど、なんらあやしいことでない。要するに言葉だけでは伝わらない、人間まるごと全生できる心身術を、身につけるというだけのことだ。理性と科学でどこまで突き詰めても、いのちは神秘だ。いつまで経ってもいのちは不思議だ。
「神秘主義者」
などと呼ばれる人たちも、神秘めかした秘めごとをしているわけではない。むしろシンプルであけっぴろげで、やっていてすがすがしいことをする。奥ゆかしく生き心地のよいことをする。
シンプルで奥ゆかしいあたりまえのことは、見ただけではどうなっているかわからないし、数値で計測したり、比較分析したり、言葉でうまく説明したりできない。だから言葉の論理でツジツマを合わせようとする学者さんたちは、これを「神秘主義」などと呼ぶようになった。
宗教というかたちをとった信仰集団は、教義論争や権力闘争にまみれて、どんどん退屈に形骸化してゆき、やがて生きた効力をもたなくなる。そうすると教義や戒律を超えて、効目のあるところだけを体術として実践していく人たちが必ずあらわれる。
そういう人たちもまた、学者さんたちからは「神秘主義者」などと定義されたりした。
ことばのレッテルというのは変なもので、僕もまた、哲学者さんたちから見れば「神秘主義者」ということになってしまうのかもしれない。
中枢神経、とりわけ大脳新皮質を使いすぎている学者さんたちは、エネルギーバランスが上下逆転していることに気づいていこう。少しは空海さんやルーミーさんを見習って、まず、身ずから、体を感じていこう。感じるところから、いのちを学んでいこう。
リアルタイムで効目がある、数百年経ってからも効目がある、そんな不易流行の思想が、とめどなく湧出する状態。
体をすみずみまでよく感じ、よく味わって、そうした状態を喜ばしく実感していこう。まずは生き心地よく、いのちを愉しみ味わえるようになる。そのうえで枝葉末節「コトのハ」を用いていこう。
抽象名詞に詳しい人たちは、気持よく体を動かして、こころをいつも柔らかく保ちましょう。
名称とか、分類なんかも、どんどん変えていくといい。
かつては「みっつの心身術」をそれぞれ、
活元・愉気・毎日フレーズ、と呼んでいた。
海外で「レイドウ」「テアテ」「セルフ・マントラ」と呼んでいたときもある。
ちのみち、たなすえ、おまじないと、最近は、祖母伝来の国言葉で呼んでいるけれど、すでに別の呼び方も生まれつつある。
それぞれ、「いいダンス」「いかしあい」「ことのたまふり」と呼ぶ。
やっていることは古神道の昔からほとんど一緒だし、根本はひとつだ。この根本を展開させていくのだから、名称も無限にゆたかに広がっていくのがいい。
こうしなくちゃいけないって固めると、いのちは、しぼんで、滅びる。
聖典として固められてしまった教義や、固形化してしまった戒律などを乗り越えて、身口意まるごとの、生き心地よさを復興していく人たち。
そうした人たちがやっているコトに注目してみると、ほぼ例外なく、昔から世代を超えて受け継がれてきた、コアなシャマン術のヴァリエーションだ。シャマン文化直系の、生き心地よい心身術だ。
そうした術も、伝言ゲームの歳月を経て、いろいろ固まってしまって、たいてい身・口・意どこかに片寄っていってしまうのだけれど……。
ありのまま、こころと体を愉しめば、神秘もいらず、主義もいらない。
南無 釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ
どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ。
この宇宙は何も秘密にしていない。
「ルーミーの深いこころは、西洋人には決して理解できない。しかしあるいは、日本人には理解できるかもしれない」
とペルシャの導師に託されるようにして、井筒俊彦さんの訳した『ルーミー語録』は、僕もあちこち暗誦するほどに愛読した。いったんインテリになっちまった者として、天才言語学者・井筒俊彦さんの著書から、僕はどれだけ大きな励ましを受けたか知れない。井筒俊彦先生、本当にありがとう。
ルーミーさんのやっていた踊りを古い絵でみるかぎり、明らかにルーミーさんは根源ダンスをやっている。日本で「ちのみち」とか「霊動」とか「活元」とか呼ばれていた動きをベースにしている。共有リズムと「おまじない」で、これをさらにハイパーにしたものだ。そうやって自然宇宙にたいして「手当」をしている。
僕はイスタンブールで、ルーミーさんがやっていたダンスを復興した。
「ルーミーさんのスーフィーダンスは、もともとこうだったと思うんです」
イスタンブールの人びとはこのダンスを見て、おどろき、よろこび、ややおそれた。一言でいえば衝撃を受けた。
けれどもちょっと試してみれば、なんということだ、誰もが自分の体で出来る、すごく体にいいダンスだった。体調不良が整っていく。痛みが消え、不快な症状が消える。生きる張り合いが出てきて、周りの人たちが好きになってきて、やる気が出てくる。あたりまえのことなのだけれど、今度は、一同、自分のからだで衝撃を受けた。
スペインでも、ベルギーでも、このダンスをするとすごいことになった。
ブリュッセルでは、いちども舞台に立ったことのない素人さんたちが、わずか三日で素晴らしいダンサーになり、素晴らしい俳優になり、ダンス・シアター作品『……に向けた最後のダンス』が生まれた。
公演を観に来た人たちは『……に向けた最後のダンス』に驚嘆した。
若者も、お年寄も、伝統アーティストたちも、前衛ダンサーたちも感動した。日本からブリュッセルへ来たプロデューサーは「飯田さん、魔法使ったでしょ。魔法使いでしょ」と驚いておられた。
別にこれは魔法でもなんでもなく、ごくあたりまえの自然現象なのだ。伝統の術とは、そういうものだ。誰かが魔法を使っているのではなく、ダンサーたちの体におのずと、生命のMagicが起きているのだ。生命というのはそれ自体魔法みたいなものだ。いのちをおだててあげれば、いのちはすごい魔法を発揮してくれる。
アフリカへ行くと、まだ、このダンスをやっている人がいた。
それでもすでにやり足りなくなっているように感じられたので、効用を伝えつつ、流行らせてきた。アフリカの超絶ダンサーたちから「ダンス・チャンピオン」という称号をもらったので、せっかくの名威を活用して、流行らせてきた。
からだの求めに応えてあげる、気持いいダンス。
生命をおだててあげる、からだ任せのダンス。
みんな違う動きで、いのちを復興するダンス。
見せるために勿体ぶってカッコつけたりするダンスとは逆方向。
目下、僕はこれを〈ちのみちおどり〉〈活元ダンス〉〈いいダンス〉などと呼んでいる。
からだをまるごと細かく感じながら気持いいほうへ動く。
元気のある人が、このダンスで速度をあげると〈ハイパーちのみちダンス〉〈ハイパー活元ダンス〉となる。エネルギーが余っている人向けの究極の健康ダンスである。エネルギーの余っている人なら、誰でもできる。誰が踊ってもこれは、見た目に「すごいダンス」となるらしい。
800年ほどまえ、一遍上人が、日本中に流行らせた踊りは、明らかにこれ。
6400年まえに、精霊時代(土器太鼓時代・縄文式土器時代)の祖先たちが踊っていたダンスも、明らかにこれ。
踊り方は、各自のからだに教わればいい。振付なんて、そんなものは、ない。人に振りつけてもらうような踊りは、いのちのダンスではない。
振付をまもろうと頭で頑張ってしまうと、いのちが引っ込む。
どう踊ったら、いちばんからだにいいか、そんなことは、各自のからだが知っているのじゃ!
体まかせの〈ちのみちダンス〉は、その時その場で、いのちそのものの動きになるせいか、いくら見ていても見飽きない。どんな振付ダンスでも、〈ちのみち〉が入っているダンスは、毎回違っていて、見飽きることがない。
考えてこしらえた見世物ダンス、意識で動きを操っているダンスは、見ていてすぐに飽きてくる。
している側も、もちろん同じで、〈ちのみちダンス〉を踊り飽きるということは、ありえない。元気なときは、ハイパーちのみちダンスを踊って、余った力を放散できる。
時間がないときオフィスでも〈ちのみち・やま〉をして体をサッと調整できる。
体がゆるんでいるときは、ゆったりとした〈ちのみち・かわ〉を舞って、たるんだところをときめかす。
これをみんなで輪になって、リズムに乗って、左回りでやると、ものすごいことになる。ばらばらに揃った、すごいダンスが生まれる。
どう歩いてもいいけれど、自動的にみんな、からだによい伝統の二軸式歩行になるのは面白い。アフリカの踊りも、アジアの踊りもそうだし、盆踊りなんかも始まった頃は明らかにそう。
やってみればわかる。ありえないような良いことが起こる。からだに、こころに、世のなかに、すえひろがりに、いいのだ、すごく。
この集団ダンスの音頭を取る人、とりわけ太鼓係は、みんなのいのちをよく感じている必要がある。
一遍さんは、みんなで踊るとき、鉦(かね)や太鼓を叩く係だった。
目のまえで踊っている一人ひとりの人間のいのち。
いのちといのちの反応や、いのちの大きなプロセス。
全員の生みだすエネルギーの波。
そうしたことを豊かに感じているシャマンみたいな人が、みんなにとって絶妙のタイミング、テンポ、間合いなどを生みだせる。
御諏訪太鼓を復興して世界に広めた、小口大八さんは、まさにそういう人だった……。
諏訪地方では、有孔鍔附土器という、縄文時代の打楽器が、大量に出土している。
縄文時代の人たちなんかは、毎晩、焚火を囲んで、一緒にこういうダンスをヲドり放題だったのだろうなあ。そのあとゆるんだ体でゆったりとマ(真・間=舞)って、大自然と交感していたのだろうなあ。
僕なんかは出来れば、週に一度くらいは、焚火を囲んで大勢で、これをやりたい。
今のところ、この輪になって踊るリズミカルな〈ハイパーちのみち活元ダンス〉を、僕は〈シャマン・ダンス〉と呼んでいる。
火は焚かなくてもいいから、都会の広場なんかで、これをやりたい。
まあ、踊ればわかる。すごくいいのだ。そのうち、こうした生命によいダンスを見る人びとの目も変わってくるだろう。
この20年ほどの、外国生まれの、ポップ・ダンスなんかも、カッコつけるにはいいけれど、ひと昔まえのエアロビクスとかジャズ・ダンスみたいなもので、もう20年ほどすれば、
「えええ、まだそんなことやってるの?」
すでに古臭くなってスタレているかもしれない。
かっこいいと思ってやっているのに、
「ふるっ!」と思われてしまったら、
「ぐさっ!」とくるだろう。
〈ちのみちダンス〉は、古代から続いているダンスの原点だから、古いということでは、どんな踊りよりも古い。古い伝統なのに「型」がないので、どんな音楽にも対応できるし、いつの世に現れても古臭くはならない。
その時代の新しい体は、かならずどこか新しい動きをする。生きている人が踊っているかぎり、〈ちのみちダンス〉は、いつでも世界最新のダンスになる。
かっこよさも、インパクトも、笑える度合いも、ただ気持ちよいことをしているだけで、最高のダンスになる。いのちはいつでもアヴァンギャルドだ。
ぜひ〈ちのみち〉を取り戻し、永遠のアヴァンギャルドで踊ってもらいたい。
ダンスってのは、いのちそのものなんだから、マニアックに競ったり、カッコつけたりしてる場合じゃないと思う。そういう既成の価値観は、流行りスタリが激しかったり、うまい先輩がいばったり、下手なヤツは仲間に入れなかったり、ムキになってゴリゴリ練習して体壊す人が出てきたり、まあ一言でいうと、狭くていろいろたいへんでしょう? そういうダンスは、踊り心地からいって、もうすたれているでしょう?
これからは、純粋に日本生まれの、ハイパーちのみち活元ダンスが、新しい世界のダンスの主流となるのではないか。
〈ちのみちおどり〉には、そもそも振付がない。どのようなかたちでも、先輩や先人や過去の偉いダンサーの奴隷となることがなく、真似というものもない。もう流行のあとを追ったり、外国生まれのダンスを頑張って真似したりする必要はない。全員が、自動的に、オリジナルの、主人公だ。いのちがイケてる、すごいダンスだ。
はじめはぎゃぎゃーぶーぶー言う人たちがいたとしても、やがて、流行る。
踊り心地を過去に投影してみると、僕はいま日本で、一遍上人のやっていたような踊りを、復興している気分になる。というか、素直に本心を言えば、一遍上人のダンスを、宗教から切りはなして、復興している。
一遍上人のおこなった復興活動を再開する。一遍上人が流行らせた、日本古来の心身術〈ちのみち〉〈たなすえ〉〈おまじない〉をふたたび流行らせ、いのちの復興を800年ぶりに再開する。今回は、日本だけにおさまる話ではない。正直な実感として、ここに、今後の世界の命運がかかっているという気がしている。
本気だ。
当時、日本各地にものすごいダンス・ムーヴメントを巻き起こし、各地に盆踊りの種を撒いた一遍上人。この方の始めた踊りは、絵巻を見てもすぐわかるように、〈ハイパーちのみちおまじないダンス〉である。一人でもすぐに踊れて、誰にでも踊れて、大勢で一緒に踊れて、こころとからだによい、素晴らしいダンスだ。
これは、僕がいま、世界中に、流行らせようとしているダンスです。
一遍上人もまた、ルーミーさんと同じように、旅して踊る、信仰詩人だった。
昨年、一遍上人が縁となり、京都の時宗のお坊さんに求められて、お寺でワークショップをしたけれど、時宗のお寺というのは、一生お寺を持つことなく、それどころか定まった住居さえなく、暗黒時代を踊り歩いた一遍上人の生き方と、どうも繋がりが薄いような気がした。
一遍上人が、人びとの喜びを増やし、苦しみを減らそうとして復興したのは、古い日本の伝統の心身術だけれど、今どきの一遍上人像は、どうも仏教のなか、お寺のなかに納まって、まったく別のものに形骸化してしまっている気がする。
ルーミーさんの仲間たちのダンスも、一遍上人の仲間たちの踊りも、僕は同じタイプのものだったと思っている。
固定した振付のない、ちのみちダンス。
このあたり、僕には確信がある。体感的にも、文献的にも。
リズムに乗って足並みそろえ、輪になって一緒に踊る「シャマン・ダンス」。
アフリカやアジアには、まだこの伝統が残っている。盆踊りも、振付が固形化されるまでは、永いあいだ「ハイパーちのみちおまじないダンス」だったはずだ。
人間にとって、良いのだ。
からだとこころにとって、良いのだ。
いのちにとって、良いのだ。
ルーミーさんも、一遍上人も、中世のやみおおき時代に、さぞこういう踊りを、切に楽しんでいたことだろう。
飯田茂実
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。