音楽や、文学や、舞台や、映画や、療術や、それぞれの専門家に言わせると、僕の好みというか、かまけて夢中になる範囲は、それぞれのジャンル内でも、尋常でなく広いらしい。
通常、いろんなジャンルの内部は、さらに細かくジャンル分けされていて、それぞれのジャンル同志は、なかなか仲良く共存共栄したがらないらしい。
お互い細かくジャンルに区切って、あいだに壁を設けて、孤独化しているのだ。
昔のシャマンというのは、まるごと人間(総合人間)だった。共同体がどんな状況におちいっても、その人間力を復興させる能力を、しっかりと身につけていた。人のからだと こころにとっていちばん大切な、シンプルで奥ゆかしい伝統技術を身につけていた。タイミングに応じて、相手に応じて、その場に応じて、いくらでも新しいジャンルを生みだしてしまえる人たちだった。
自然と社会のバランスを取る、仲立ち人。
言葉や歌や踊りのエネルギーを盛りあげ、真と美のエネルギーを盛りあげる。共同体の病みに、意識の、ひかりをあてる係。
身ずから歌って踊って太鼓を叩き、神話物語おまじないに通じ、いろんなバランス調整というか、プロセス調整というか、元気づけや癒しをおこなっていた。
そのうち、シャマンの人生術から、「芸術」「療術」などというものが派生し、さらに細分化し、専門家し、職業となり、専有化されてバラけていった。
細かく、細かく、分け隔てて、細分化して、ジャンル分けの壁を固定化する時代は、すでに終わりつつある。細分化して、分業化して、専有化していく、そういうやり方がもう、通用しなくなってきて、壁が崩れた。そういうやり方をすると、人のこころとからだが、どんどん不幸になっていくのだ。医学だけ見ても、芸術だけ見ても、20世紀の細分化・分業化・専有化は、まったくたいへんだった。
コンクリートの高い塀などいらない。生垣があればいい。
これからは人がどんどん繋がっていく。
人のなかでも、いろんなことが分け隔てされず、ひとつに繋がっていく。
今、シンプルなオリジナルが必要になっているのだ。
ふたたび、ひとつの根に戻ろう。
シャマン術こと始めのタイミングだ。
こころとからだを大切にして、まるごとやっていれば、どんなジャンルにもどんな解釈にも納まりきらない、その人ならではの総合的な遣り方が、自然と生まれてくる。若気の余っているうちなどは、自分をかけがえのない、唯一のすごい者だと見做したいのもわかるけれど、「世界で唯一の独自なる我」など追求してもムダだ。頭で考えて頑張らなくても、そういうのは全部、後からついてくるのだ。
昔のシャマンは、まるごと生きていたので、どんなジャンルも、その人から、必要に応じて溢れだしてきた。
ジャンル。
方向性。手法。
初心者と玄人。技術レベル。意識レベル。
それぞれ、いろいろなふうに違っていて、
「お互いに共存できない」
などと思われていることたち。
「あまりに違っている」ということにされていて、
「絶対に共存できない」などと思い込まれていることたち。
そうしたことが、シャマンな人のこころの世界では、ごくありきたりに共存している。
人間に関わるいろんなタイプの、いろんな手法の高密情報に、僕はとことんかまけてきてしまった。心のなかでは膨大な現実の共存共生現象が起こっていて、もう言葉なんかでは、この現実を共有しきれない。経験を重ねるというのは、こういうことなのだろう。現実が拡張し、深まり、抱えきれないほどの現実を、現に抱えてしまうことになるのだ。
ここまで世のなかで活動を続けてきたのは、切実な希求があったからだ。
切実な希求とかいっても、平たくいえば、欲である。
最初から、欲があった。
どういう欲か。
人間のこころの現象すべてに寄り添って、すべてをすくいあげたかった。この人間世界の、詰まって固まっていることを流して、足りないところを補いたかった。人工化しすぎて不幸になっているところを、再自然化したかった。
言葉でいうと、そんな感じで、モティベーションはいつもシンプルだ。
そういうことが、出来る、と、今なお、信じている。
僕がよく想うのは、小説の山本周五郎さんや藤沢周平さん、映画の山田洋二監督のような方々のこと。こうした大先輩たちを僕は、大乗芸術家と呼んでいる。大乗芸術をする人たちは、身ひとつの快感、身ひとつの悟りのために、趣味でやっているわけではない。広く世のなかを見渡しながら、人びとにとって少しでもよかれと思う心が、作品に貫かれている。
都会の若い世代の人たちも、農村のおじいちゃん・おばあちゃんも、お母さんたちも小さな子供たちも、賢い舞台評論家の人たちも、工事現場で働いている人たちも、世界中の舞台人たちも、いろんなはぐれ方をしている人たちも、悪いことしている人たちも、それぞれに、みんな、いきいき、しみじみ、笑って、泣いて、心から感動できる舞台、そういう大乗芸術を、いつか創れると信じている。
毎回ぼろぼろになりながら、毎回ゼロに戻って全力投球しながら、いろんな人に鍛えてもらいながら、いつかは出来ると信じています。そこへ向かっていくほかないと思っている。
そういう大乗芸術が出来る人になりたい。そういう人になったら、かなり動きが速くなると思う。
僕は毎回エネルギーを使いきって倒れてはすぐに起きあがるという繰り返しで、回復力が速い。骨折や腱切、虫さされや傷などの治りが、この10年ほど、自分でも信じられないくらい速くなってきている。それがさらに速くなると、どうなるのだろう。
動かそうとしなくても、周りの人たちが自然と動き出すようになるのだろうか。
こういうノンストップまるごと全力、生き尽くしの活動をしていると、寿命がどうなるのかは、自分で試してみないとわからない。とりあえず、日本の伝統心身術を、世界の人たち四千万人くらいに広めるまでは生きていたい。
ちかごろは、シャマン術の基本にもなっている毎日の基本心身術、
ちのみち(活元)、
たなすえ(手当)、
おまじない(毎日フレーズの作り方と用い方)を、
みっつの身技などと呼ぶようになっている。日本の伝統心身術を伝えるとかいっても先ずは、たくさんのベースのなかのさらにベースとなっているこのみっつを、思わず毎日したくなるようなかたちで、ひたすら、何とか、伝えようとするだけだ。
そういえば、三種の神器、
剣、は活元、
玉、は手当、
鏡、はおまじない……
を象徴していたのではないか……
古代より続く身口意三密の伝統のなかでも、この「三種の身技」はとてもポピュラーな必須常識のシャマン術だったんだろうなあと、毎日続けるほどに実感する。
みっつとも、石器時代から伝えられ、大切に受け継がれ、残ってきたものではないかと僕は思っている。
このみっつの根幹と、その枝葉は、極意のなかの極意、秘伝中の秘伝として様ざまな伝統の「道」や「教」や「術」のなかにも残った。
どうして秘伝なのか。どうしてこんなにシンプルで効くことが秘密なのか。
「道」や「教」や「術」の権威というか稀少価値が損なわれないよう、次第にケチな派閥団体が独占して、門内の秘密とするようになったからかもしれない。よくおこることだ。
大切なことは、常に、何か別のことに利用され、エネルギーを失い、衰微して、形骸化していく。
失われたエネルギーを取り戻し、大切なことを復興して息づかせるには、権威や派閥などを、いったんぜんぶゼロに戻して、放ち捨てる必要も生じる。
話題を元に戻して……
みっつの心身術。
どうしてこんなにシンプルで効くことが秘伝とされてきたのか。
人の心のからくりに通じた、奥ゆかしい理由も考えられる。
「元気に生きるには、これだけでまずは、じゅうぶんだ」
などと素直に広めようとしても、あまりにかんたんで、やさしすぎることなので、
「なんだ、そんなことか」
と軽んじられ、あなどられるからかもしれない。
そうやってあなどられ、かえりみられなくなることがないように、極意・秘伝として、重みをつけただけなのかもしれない。
みっつの心身術のベースは、3時間×3回で、ほぼ身につけられる。あとは、各自が、毎日楽しみながら、自分なりに工夫してゆく楽しみがひらけている。奥行きは、みっつとも無限。その効目もまた、いったいどこまで効くのか、続けるほどに、際限がわからなくなる。
文化背景も、宗教も超えて、誰にでも効目をあらわす、やさしくて心地よい、毎日の心身術。一人でも多くの人に、身につけてもらいたい。
今、世界中で多くの人が体に摂取しているものといえば、アメリカ資本が量産している「あぶく飲料」と「挽肉パン」と「肉芋油揚」だろう。どれも、いかにも、体にわるい。
新しい時代がくる。その時代の人びとは、原発も、農薬も、兵器産業も、製薬産業も、「あぶく飲料」「挽肉パン」「肉芋油揚」といった巨大資本のチェーン店も、とっくに卒業していることだろう。
人々がこころとからだが再自然化されていって、お互い元気に活かしあうようになる。こころが、実感が、お互い直通になっていって、秘密も、孤独も、携帯電話も必要なくなる。
三種の身技も、世界に広がって、あたりまえになっていく。
そう信じている。
飯田茂実