いちばん最初の師匠は、祖母だった。
おばあちゃんのおかげで、今の僕の活動がある。
かなめとなるところは、みな、祖母から教わったことだ。
この年でまだ丈夫に生きていられるのも、祖母のおかげだ。
このHPを作成している、伊藤照手は、祖母に似ている。祖母の若い頃の(美貌の)写真を見たうえでも、そう思う。照手は、今回、東北4県ツアーの広報美術と、広報全般を担当し、『春風のなか、ちいさな街』に出演した。
e-dance仙台の公演に来られた方は、ぼろぼろに破れた背広を着て、片足だけの靴を履き、破れたぬいぐるみを抱いてさまよっている、ヒゲぼうぼうの男を覚えておられるでしょう。そうしてこの男のあとに、膝歩きしてついていく女子を覚えておられるでしょう。その女子が、どんなふうに、男を蒲団へ寝かせつけたか、そのときの表情とともに、覚えておられるでしょう。
ひと吹きで劇場の照明を消した、あの女子が、伊藤照手。
祖母と似ているというのは、主に、背格好、骨格、顔立ち、声。……つまりほとんど似ている。
あっけらかんと大雑把かと思えば、心身に関わることになるときめこまやかで、個人的には、おふたかたとも、縄文美女のイメージがある。
僕の祖母は、村の民話の語り部だった。
「むかしむかし、あるところになあ」
語り部は、ただ口で民話を朗唱するだけではない。表情や、手ぶりや、アクションも加えて、からだ全体で「はなし」を伝承する。夕方から夜にかけて。家の外で。大勢の子供たちに囲まれて。
たえず聞き手の様子もうかがい、ときには聞き手と、語り合ったり触れあったりもする。
語り部は、化身術みたいなものも用いた。
おばあちゃんが鬼に化身したときの声がまた怖いのだった。動物に化身したときはこちらも大笑いだった。お地蔵さまや神さまに化身したときの声は、しんとして感動的だった。
テレビも映画もない時代、村の子供たちは祖母を取巻き、祖母の語りを夢中になって眺めていたという。 そんな「おばあちゃん」が子供心に誇らしかったと母はいう。
伊藤照手も、舞台で「語り部」みたいなことをしている。俳優として、語り手として、とても評判がいい。
そういえば、照手も僕のおばあちゃんも、農家の生まれだ。どちらの実家も、時代を超えて有機無農薬栽培だ。
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僕の祖母は、伊那谷で、神主系の、子だくさんの、貧しい農家に生まれた。
小学校を出てすぐ、岡谷の製糸工場で働きはじめ、百円工女になった。
優良工女として県知事に表彰されて、東京へ嫁いだ。
娘をふたり産んで、すぐに夫を失った。
姑一家の密談を耳にしてしまい、娘を奪われてなるものかと、嫁ぎ先の、世田谷の家から、娘ふたりを連れて夜逃げした。
戦時中は山国から米を背負って、上京帰郷をくりかえした。
闇米を売りに出て、娘たちと、東京の人たちを、養っていた。
そのことで罪とされて、何度も官憲に捕まり留置された。
流浪しながら、二女を中学校まで通わせ、育てあげた。
逃げ出してきた世田谷の家は、大空襲で灰になった。
終戦の日には、玉音放送を聴き終えて、
「どういうことずらか」とひそひそ囁き合っている人びとに、
「日本が戦争に負けたって言ってるだわ!
みんなそんなこんもわかんねえだかえ!
もう戦争、終わりになったってこんずらえ!
みんなハラ決めてやってけっつうこんずらえ!」
と喝を入れて、その場にいったん大騒ぎを巻き起こした。
戦後は旧闇米ルートを辿って行商で大いに稼ぎ、ついには再婚のひとつもせず、男ひとりに頼ることもなく、女手ひとつで貯蓄をし、戦後の混乱期に、土地を買って、家を建ててしまった。僕はこの家で生まれ育った。
娘二人を(将来性というか潜在力のありそうな)貧しい男たちに嫁がせ、僕たち孫ができてからは、着付けや裁縫の内職で稼ぎ、百姓仕事をしながら、母子家庭状態の孫ふたりを育てた。
孫がほどよく育って、もう人を養うために働く必要がなくなってからは、漢字の猛勉強を初めて、次つぎと常用漢字をマスターしていき、膨大な歴史文学・時代文学を読みふけるようになり、SF小説や推理小説、バーナード・マラマッドやガルシア・マルケスのような現代文学も愉しんだ。
世慣れた働き者のおばあさんということで、老人会の会長を務め、お年寄りたちを仕切って歌ったり踊ったりしていた。
朝の心身術(不思議な床体操・床ダンス)を欠かすことなく、山の畑へ上りおりしては野良仕事を続けていた。
日が暮れると、夜更けまでずっと、子供の頃からのあこがれだった「読み書き」を愉しんで過ごしていた。
飯田茂実
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