アナトリア山中の湖畔に、1万2千年ほどまえの古代遺跡がある。この遺跡にほれ込んだオメールという科学者技術が、古代シャマン文化を研究・実践するため、さっそく貯金をはたいて、ここに別荘を買った。大勢で合宿できる、宿所みたいな別荘らしい。
僕のふるさと信州諏訪の湖のなかにも、広大な古代遺跡が眠っている。諏訪もまた、ながい歴史をもつ、シャマン文化の故郷である。湖底遺跡は、やはり1万2千年ほどまえのものと推定されている。
アナトリアの遺跡の写真集をあいだに挟んで、このことを話したら、オメールの表情が「くわっ」となり、しばらく無言で僕の顔を見詰めていた。
オメールは、ともにシャマン術国際協会を発足させた同志である。ダンサーであり、科学技術者であり、アマチュアの考古学者であり、シャマン文化研究者であり、ほかにもいろんな表の顔・裏の顔・奥の顔をもっている。
出会ってすぐに親友になった。
オメールに招かれて、僕は今月からトルコへ飛び、山奥の湖畔の、彼の所持する別荘で、大勢の人たちと合宿をする。まずここで「飯田茂実のシャマン術ワークショップ」をして、それから海辺の合宿所へ移り、舞台の創作ワークショップをする。
オメールは、別荘を買うのに貯金を使い果たしたはずだけれど、僕と会うと「これ、使って」と紙幣を手渡してくれる。国際移動のための航空費もまた、彼が都合してくれる。こういうありがたいパトロン(私的支援者)たちのおかげで、僕はツアーを続け、ギャランティーのない創作活動を続けることができる。
僕はアーティストという自営業をしている。今回の一時帰国中は、原稿料や本の売り上げで収入を得ていた。公的な援助は、これまでに、ほとんど受けていない。国内での舞台公演活動は、個人的にはいつも赤字だ。
そのへん、オメールという人は公的によく稼ぐ。
オメールは生体学系の科学技術者であり、大学教授である。
さらにオメールは、美しい詩画集を出版している前衛詩人であり、ダンサーであり、シャマン文化やイスラム精神文化史の研究家であり、様々な国際ダンス・ワークショップの主催者であり、イスタンブールの新しいダンス・シーンの中心的な人物だ。シャマン・エナジーもりもりの人だ。
仙台舞台芸術シーンの顔、あの八巻寿文さんと、骨のかたちが、まったく同じだった。そのせいで最初から「あ、八巻さんだ」と思って、オメールに近親感を抱いてしまった。
僕にとって、イスタンブールは、知人ひとりいない未知の街だった。
街に到着して、海を見た。
それから、モスクで礼拝をした。
オンリー・アッラーのムスリム教徒ではないけれど、場のエネルギーが大好きなので、僕はモスクへも行く。
「人とはもっと、こういうこころでつきあいたいものだ」
と感じるような、無私のこころが、聖なる場所には充ちている。
モスクのなかに座って心身術をしていると、クウェート人のムスリム青年がやって来て、ちょっと古風な文体のイギリス語で、熱烈にアッラーへの帰依を勧めてくれた。
そこで僕は彼に訊ねた。世界三大宗教のひとつ、ムスリムへの入信を薦められるたび、やはり相手にこの質問を発してしまう。
「あなたは、四代目のカリフ、アリーの名を、知っているか?」
「はい。もちろん」
「アリーが、カリフとして初めて、人びとのまえに立ったとき、人びとは静まりかえって、これからアリーが、何を語るかということに、意識を集中させていた。我われの新しいカリフは、これから、我われに、何を語るのだろうか?……この時、アリーが何を語ったか、そしてアリーのまえにいた人々に、何が起こったか、あなたは知っているだろうか?」
「いいえ」
「あなた、それ、知りたい?」
「はい」
「アリーは何も言わなかった。言葉なく、人びとのまえに立っているだけだった。あなたは、至福の表情とともに沈黙している、アリーの姿を、想い浮かべることが出来るだろうか?」
「はい!」
「それだけでよかった。アリーの心が、人々の心に伝わっていった。人びとの心は、喜びと美しさにみたされていった。人びとは、このような喜びと美しさを感じられるこころを与えってくださったアッラーに、ただ感謝した。」
「おお。(聴きとれないアラビア語のつぶやき)」
「素晴らしい話ではないか?」
「はい! はい!」
「アリーと同じことを、あなたは出来るだろうか?」
「私にはできない」
「あなた、いつかできるんじゃないの? あなたはアッラーを信じていますか?」
「はい」
「それではアリーのような、慈悲の力を獲得しよう。言葉を超えた慈悲の力を獲得しよう。」
「はい。……はい。……ありがとう。ありがとう。」
記憶が正しければ、青年とのあいだに、ほぼこの通りの、ゆっくりとしたイギリス語が行き交った。青年は大きく見開いた目をきらきらと輝かせて、僕の手をにぎりしめた。
これまで、いろんな開祖つき・教祖つきの宗教から勧誘されたとき、僕は、たいてい、この「四代目カリフのエピソード」みたいな道筋で、相手に話を聞いてもらってきた。そうすると相手はいつも弾んだ声になり、元気よく去ってゆき、それから二度と電話も寄越さず、会いに来ることもなかった。
青年との遣り取りの途中、明らかに僕は、至福感を味わいながら、唯一なるアッラーに感謝していた。こういう場を経験するたび、パフォーミングアートの化身術をいささか身につけておいて良かったなあと思う。せっかくだから、お互いに感動できる場面では、思いっきりハイパーにいくのがいいのだ。相手に応じて、本音を語ればいいのだ。そうすると、お互いに、モティベーションが高まり、やる気が出てくる。
国境の向こうでは、むしろこういうことをやりやすい。
「何か、この人、インスパイアされているっていうか、神がかっていて、面白いぞ!」
という感じで、素直に客観視してもらえる。
母国にいると「なにかの宗教?」などと勘違いされないよう、気を遣って工夫する必要が出てくる。
仲間内という固定観念は、大切な和合感・違和感を取り逃してしまうことも多い。
頭ではよくわからなくても、生き心地よく元気になれるのがいい。そういう技術を心身術、と呼んでいる。
舞台芸術の現場は実のところ、この生きた心身術の宝庫である。からだとこころに良いのだ。やる気が出てきて、人のことを好きになれて、元気になれるのだ。
クウェート人の青年と別れて、モスクを出た。
モスクの階段にすわり、ちょっとひもじい思いをしながら、トルコ全土からこの大都会へ集まってきた膨大な人波を眺めているうちに、この街で何かしら始められる気がしてきた。
「よし、この街で何が起こるか、もうしばらく待ってみよう」
そう決意した三時間ほど後のこと、イスティクラル通りの脇で、仙台の八巻さんとそっくりな骨のかたちをした男が、僕に声をかけてきた。彼がオメールだった。
一瞬で意気投合して、一分ほどお互いに照れた。出会って三分後に、オメールは、ダンスのワークショップを開催してくれないかと僕に頼んでいた。
まるで清志郎さんが『わかってもらえるさ』で歌っていたままの国際版みたいな出会いだった。
後で知ったのだけれど、オメールはすでに、僕のことを、夢で見て!知っていたんだそうだ。夢と現実が、こんなにも地続きな科学技術者を、僕はほかに知らない。
「日本から飛んできて、グルジェフがイスタンブールで実現できなかったことを、実現する男」
を夢で見ていたのだという。僕と会って、すぐに
「ああ、このほっそり背の高い男だ」
そう察したという。
ちょっと待ちたまえ。なぜ、勝手にそういうことにしてしまうのだ。
オメールに限らず、たしかに天才はみな、潜在意識の力を、積極的に活用しているとは思うけれど……。
だいいち、またしても「グルジェフ」? 僕が向かう国ことごとく、誰かがグルジェフ、グルジェフと、引き合いにだすのは、なぜだろう?
グルジェフが何をしたというのか?
たしか二十世紀を代表する舞台芸術家、ピーター・ブルックの師匠は、グルジェフの弟子だったはずだ。孫弟子にあたるピーター・ブルックは、グルジェフの伝記映画『注目すべき人々との出会い』を撮っている。
僕の父は、もともとシェイクスピア劇の演出・俳優をしていた人で、ピーター・ブルックの熱烈なファンだった。父のあこがれの演出家の、師匠の、そのまた師匠、そう思ってみると、グルジェフという人にも何となく親しみが湧く。
トルコの映画俳優さんから、ピーター・ブルックの撮ったグルジェフの伝記映画を見せてもらった。居並ぶスーフィーの名演奏家たちによる、冒頭の聖なる音楽のシーンは素晴らしく、以後、よく目のまえに浮かびあがる。やはり身ずから毎日おこなっているので「倍音唱法」のシーンもよく想い出す。
ただし映画だけ観ても、よくわからないような映画だった。僕はグルジェフの自伝『注目すべき人々との出会い』を愛読していたからよくわかるけれど、何がなんだか、わからない人にはちんぷんかんぷんだと思う。
グルジェフさん、あなたが何を求めていたのか、あなたが何をしたかったのか、あなたが何を変えようとしたのか、あなたのこころは、僕なりにしみじみとわかる。
グルジェフさん、あなたが求めた東洋の秘法は、日本の伝統のなかにあった。やさしくて心地よく体によい、究極の身体叡智は、あなたがそこまで旅していくのを諦めた、極東アジアにあったのだ。〈ちのみち=霊動=活元〉〈たなすえ=手当=愉気〉という、簡易にして最強の心身術があったのだ。あなたが伝えようとした「知識」は、そこからいくらでも、すくすくと生えてくる。そのような心身術があったのだ。
昨年の9月、ヨーロッパで次の仕事をする日までしばらく休みがあったので、僕はテルアヴィヴからイスタンブールへ飛んできた。
「なぜかはわからないけれど、どうしても行く必要がある」
というわけのわからない直感だけをたよりにして飛んできた。トルコ政府が国として認めていないイスラエルから、多少の危ない橋をわたって飛んできた。ただ一人の知人もいない、地図さえ持っていない、通りすがりの異邦人として。いつ実現できるかもわからない、大きなヴィジョンをひそかに抱いて。
そうしたらオメールと出会った。こういうこともあるのだなあと、驚き感動した。宇宙のめぐりあわせとは、こういうことだろうか。どうでしょう、八巻さん。
宇宙などと言いつつも、書き心地は冷静だ。このところ僕は仙台の北山に住み、東北のあちこちへ心身術ワークショップに出かけている。お味噌汁や漬け物を作って食べながら、冷静にこれを書いている。東北を移動しているうちに、次の舞台や、映画の構想が生まれてきた。
明日は福島でワークショップだ。
「放射能、気をつけてね」
と言ってくれる人がいた。
相手が目にも見えない匂いもしない触れようもないものの場合、どう気をつけたらいいのか。
気のつけ方はこれまでと同じ。いつもの心身術をする。いつもの心身術を、新しく工夫しながら伝える。
いのちに関わることを続けていると、いつも切実な心地になってくる。
気楽で落ち着いているのに切実、という状態もよく味わう。
ワークショップという場だけではない。
アフリカのスラムで。
ヨーロッパの町を歩いていて。
ヒマラヤの山中で。
ふだん日本で電車に乗っていて。
目のまえの人に、これを伝えたくて、つい伝える。
この気持を、わかって頂けるだろうか。
わかる方は、すでに活動を始めておられることと思う。
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イスタンブールの名物スタディオで「飯田茂実の心身術ワークショップ」が始まった。30人あまりの参加者が集まった。
旬のダンサーから、映画俳優、コメディアン、工学研究者、文化人類学者、企業コーチ、哲学者、ヨガの先生、武術の先生、文学者にいたるまで、僕のワークショップに来てくれた人たちは、ほぼ全員、多かれすくなかれ西欧語を話せた。ナポリ人、南オランダ人、ドイツ人、フランス人など、西欧人も混ざっていた。
僕が時どきスペイン語やフランス語を用いると、誰かが即、トルコ語に通訳してくれた。アラビア語とペルシャ語しか話せない神学者とも親しくなった。たまにこちらが日本語で話してしまうことがあり、みなはしばらくポカンとしたあと、表情ゆたかに大笑いした。
オメールが声をかけて集めた参加者たちは、ほぼ全員、僕が、久しく、切に、
「どうしても、こういう人たちに会いたい!」
願っていたような人たちだった。
それはどういう人たちか?
キーワードは、シャマン。人類が、生命が、自然が、もっと喜ばしくなるよう、もっと苦しみを減らすことができるよう、「シャマン文化」「シャマンの術」「シャマンのアート」を研究し、愛好し、実践している人びとだった。
彼らは、それまでお互いに、そのことを知らなかったりした。それぞれ、ひそかに、シャマンの芸術や、シャマンの術に惹かれていたのだった。
お互いに不思議な高揚感のなかで、ワークショップが進んでいった。
向こうもまた大喜びだった。
「あなたみたいな人が来てくれるのを、私たちはずっと待っていたのだ」
と参加者たちから言われた。
奇跡みたいな出会いだった。
実は感動して、何度か泣いた。
「あと1週間だけ、ワークショップを続けてほしい」
「参加者みんながそう願っているのだから」
イスタンブール人を中心に、各国から集まったワークショップ・メンバーたちにせがまれて、それから先は、週末ごとに、さらにもう1週間ワークショップをすることになり、さらに滞在が伸びることになった。
僕が身につけ心得てきた心身術の、要点だけを集大成するワークショップとなった。
百時間ほどあれば、ダンス、音楽、文学、療術など、人類共通の基礎的な技と術の、入口へ案内できる。最初の大広間を見楽してもらうこともできる。人によっては、そこから出口まで、ガイドなしで行ける。
こちらは西欧語を用いて、どう相手の心身に術をうつしこむか工夫し続ける。
これまで各地でずっと続けてきた、舞台クリエイションのワークショップとはまた違ったものになった。
舞台クリエイションでは、どうしても参加者が「出演者」に限定されてしまう。ひとつの創作コミュニティを仮設して、ひとつのヴィジョンを実現する。お客さんを念頭に置き、手をかけ、念を入れ、全霊を注いで、工夫をこらし続ける。最終ヴィジョンに向かって、ひそかに緻密に設計を繰り返し、舞台ではたらく生きた装置みたいな出来事を準備する。
舞台創りは集団でおこなうシャマン術だ。ああ面白かったとか、あの人すごいというようなレベルではなく、効く舞台は、本当に、お客さんの心身に、よく効く。
クリエイションではかならず、基本体術として、舞台のたしなみとして、心身術を身につけ心得てもらう。けれどもそうしたあたらしい心身の世界と、これまでの日常の心身とに区別をつけ、術の愉しみをその場かぎりで忘れてしまう出演者が、これまでは存外多かった。上演を目指すことによって、こぼれ落ちてしまうことも多々あった。どうしようもなく残念なことだった。芸術のうわべに捉われ、世のなかのうわべに捉われて、常識から脱皮していくことができず、軽い悪循環みたいなものに復帰してしまう人たちが案外多いのだ。このへんを、なんとかしたかった。
たくさんの常連さんたちが熱心に、一連のワークショップに参加してくれた。
素晴らしい集中力と表現力をもつ、高名な初老の俳優さんがいた。英語も巧みな人だった。この人がいちばん夢中になって、僕の紹介した様々な心身術を身につけていた。熱心に質問をしながら、どんどん身につけていった。いつかこういうことを学べるのではないかと、久しく求めてきたのだと言って、感動してくれた。
企業コーチをしている参加者は、このワークショップで身につけたいくつかの術を、リスボンで開催された、企業トップの国際ミーティングで紹介し、大好評を得て帰ってきた。いずれ、僕もそうした場で、ワークショップをすることになるかもしれない。
いちど、どうしても西欧語を用いる気が起こらず、最初から終わりまでいっさい無言で、ワークショップをナヴィゲイトした日があった。
「今日は無言でいきます」という最初の説明さえしなかった。
「これで終わりです」という最後の挨拶さえなかった。
ただ参加者一人ひとりを感じ、参加者たちのエネルギーを調整しながら踊っているだけだった。
「こんなに美しいワークショップは初めてだ」
「生涯で最良の時間だった」
とのことだった。やはり無言はいい。
ちょうど秋の深まるころ、ことの端(葉)は散り、見えない根と、見える幹枝ばかりがのこっていた。
ワークショップ4週間目には、15人くらいで公演を行った。僕もみなを指揮しつつ、
「マックスをお見せします」とソロで踊った。
そうしてさらに滞在は延び、ワークショップ5週間目には、なんということだ!
素晴らしいワークショップ・メンバーたちとともに、
〈シャマン術国際協会〉
をイスタンブールにて、設立発足させてしまった。
現在、〈シャマン術国際協会〉のコミュニティは、世界7ヶ国に広がっている。
各国で、メンバーたちが、みっつの心身術=「シャマン術みっつのベース」を、毎日実践している。そうして定期的に、ときには毎日集って、このみっつを下敷きに、新しく身につけた各国の伝統の心身術を、分ち合っている。
かえりみて驚く。
なんということだ。
ヴィジョンがそのまま、かなってゆく。
少しずつ、かなってゆく。
飯田茂実
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