生き心地のいい心身術を、心得て、身につける。
日毎の習慣とする。
信じないでいい。身につけばいい。
信じる心は、身についたあとからついてきたり、ついてこなかったりでいい。
大切なことはみな、いのちで、からだで、こころで、感じ、味わい、楽しめる。
頭で理解しているだけではムダ。
信じているつもりになっても、身についていなかったらムダ。
頭でわかって信じていても、体と心で楽しめなかったらムダ。
うまく宗教すると儲かるそうだけれど、儲けているうちはダメかもしれない。トップ・ダウン・システムもだんだん必要とされなくなってきているし、そろそろ、要らないんじゃないかな、みんなでひとつの宗教。
いのちを大切にする、いのちを感じる、いのちを味わう、それだけでいいんじゃないかな。
生き心地のいい心身術は、いい。
貧しい人たちも、稼ぎすぎの人たちも、みんな、いっさいお金をかけずに、続けていけるのがいい。
強い立場にある人たちも、弱い立場にある人たちも、みんなが、楽に続けていけるのがいい。
「みんなで絶対に信じなきゃいけない」ことなんて、もう要らない。
「みんなで絶対にまもらなきゃいけない動き」なんてもう、要らない。
それぞれが、こころとからだを、毎日ちゃんと感じてあげて、味わえばいい。
こればかりは、二百兆円払っても、かわりにやってくれる人はいない。
「いつも、こきつかうばっかりで無視していて、ごめんね」
「毎日、からだのために働いてくれてありがとう」
「何か、してほしいことはない?」
体の内側、からだの機能を感じて、対話をしてあげるといい。
動きながらこれをすると、〈ちのみち〉になる。
じっとしたままこれをすると〈たなすえ〉になる。
僕はどんな宗教宗派にも属していない。
かつてはいろんな神さまたちを信じていたし、太古からの優良エナジースポット=森の社で遊ぶのが大好きだった。
福音書を暗誦してルーテル教会にも通っていた。牧師館に住まわせてもらっていた。ブッダの発見した摂理や、様々な大乗経典を愛唱した。禅寺で寺男をしていた。法華経を行じていた。
モスクで礼拝することもある。イスラム名を持っている。カトリックの礼拝にも加わる。ヒンドゥーの儀式にも加わる。ブードゥー教の儀式にも加わる。ムリッド教の大祭にも加わる。老子さん、ルーミーさん、ラーマクリシュナが大好きだし、日本の古神道の伝統や、空海上人・一遍上人が大好きだ。
でも、どんな宗教宗派にも属していない。
固定した思想や教義を、唯一絶対のものとして、信奉崇拝しても仕方ないのだ。
ことに、他の宗派や宗教を「共通の敵」とみなすような宗派や宗教は、これから自滅の一途をたどるだけになってしまう。その辺に気づいた当事者たちは近頃、おおわらわで教理改革を進めている。
滅んでゆくものは、周りが滅ぼそうとしなくても、自滅してゆく。
まず滅んでいくのはいつも「目先の利益」と関わるところだ。
「共通の敵」みたいな教理は、とうの昔に人類規模で時代遅れになっている。あらゆる宗教団体のメンバーは、ひどいことをしているという自覚をもって、「敵」をさっさとなくしていこう。
「敵は地獄におちる」とか、「あいつらは教えの敵だ」などいう教えが宗教のなかに刻まれるのは、古来、教祖の気の迷いから生まれた「うっかり」だ。そういうのは教祖の勢いあまった鬱憤・愚痴が、うっかり文章になって残り、固形化されてしまったもので、いわば教祖・教団・教派の抱える、汚点みたいなものなのだ。
何かを敵とするような考え方は、信仰としてもってのほかだ。一刻も早く、頭の気詰まりを取り除こう。
「お客さまは神さまです」
という感じで、お互い元気に活かしあっていこう。
「敵」からにこやかに解放されて、いのちある人、誰とも仲良く、すがすがしくなろう。
生きてはたらく「信仰」は、宗教と違って、固形化していない。
これは憧れ、仰ぎ、信じる、こころの活元ダンスみたいなものだ。
いのちの立場で、いのちを大切にするということだ。
固形化した思想や、宗教宗派をどうしても必要とする人がいる、ということもわかるけれど、僕には必要ない。いずれは誰にとっても、とくに必要なくなるだろうと思っている。
僕には個人的な、ささやかな習慣がある。この習慣の効用を知っている。
この習慣には伝統がある。何千年という伝統がある。
しかもなんということだ、毎日からだとこころで、その効用を楽しめる。
かためずに、よどませずに、ながれをよくしていこう。
左右どちらの岸にも久しく留まることなく、いのちの流れをよくしていこう。
もちろん、過去の宗教を「無視」することはできないだろう。
無視したり、抑圧したりすると、苦しみが生まれる。
学べるかぎり、過去の宗教から、心身術を学ぶのがいい。
家族づきあいや、友の会や、近所づきあいがいい。
愉しみ、味わう、会がいい。
野鳥友の会も、ワールドカップ観戦友の会も、その辺は変わりないだろう。
人類は、ひとつの統一宗教を必要としてはいない。
シャマン術友の会のメンバーになりたいという人たちにも、これだけはあらかじめ、話しておくようにしている。勘違いされると困るから。
まず、シンプルで生き心地のよい、心身術を、生活習慣として身につけよう。
国を超え、特定文化を超えて、仲良く友達づきあいしていこう。
長い伝統をもつ、根本的な心身術を、学び、身に付け、伝えていこう。
そうやって、自分たちのいのちを復興していこう。
シャマン術友の会のメンバーが共有しているのは、早い話、それだけだ。
「手を洗おう」「顔を洗おう」「歯を磨こう」
これだけですでに、みっつではないか。
やっていて楽しくて生き心地のよいことを、あたらしくみっつ加えてもいいではないか。
生き心地は、日々の暮らしの根本だ。
〈シャマン術 みっつのベース〉は、人類になら、誰にでもよく効く。
自然治癒力が高まる。
免疫力が高まる。
こころと体のバランスが大きく整う。
アフリカの聖地トゥバで僕は、地元のシャマン系ダンサーたちから次つぎとダンス・バトルを挑まれて〈ダンス・チャンピオン〉と呼ばれていた。アフリカの〈ダンスチャンピオン〉がこう言うのだから、せめてすこしくらいは真に受けてほしい。
まずはここから始めてみる。
そうすれば少しずつ、自然治癒力が活性化していく。
心身まるごと全力を発揮して生きられるようになる。
遺伝子のなかで眠っていた感性が目覚め、心身のなかで冬眠していた、いのちの術が目覚めていく。
ダンサーや俳優やミュージシャンなどのアーティスト、武術家やスポーツ選手の潜在能力も、飛躍的に引き出される。このことは舞台によって、出演者も、お客さんも、すでに体験済みだと思う。
僕にも信じていることがある。
不思議ないのちの力を信じているのだ。
ほかの人はまた信じたいことを信じたいように信じればいい。
それぞれに、みんな違って、みんないい。そういうのが信仰だ。
僕の言うことも、信じる必要はない。どういうこころで言っているのか伝わればいい。べつに信じなくても効目があればそれでいい。
何ごとも固めることなく、頭では話半分にしておき、あとは心身で感じてたしかめるのがいい。
自分のからだとこころで納得するまでは、どんな話も、話半分で聞いておくのが大切だと思う。言葉そのものは、実感とも、体感とも違う。
僕がこういう話をいくらしても、本人が実感して、体感してみるまでは、腑に落ちないと思う。
僕は、心身術のナヴィゲイターというか、宅配屋さんみたいなことをする。あとは本人が開封して楽しめばいい。僕は出前をする。あとは本人が食べて愉しめばいい。
子供はいい。元気だ。からだとこころで、すぐにわかってくれる。
どんな言葉であれ、言われた言葉そのものには捉われてもムダ。
言葉を通じて信仰するのはいいけれど、言葉そのものは、信じようにも実体がなく、実感がないから、こだわってもムダだ。
宗教というものもまた、大勢で共有された或るかたちに、それぞれ自分のこころを投影しているにすぎない。それぞれが、妥当なところに収まって、そうなっているケースも多い。
ひとつの神さまが気になるようになって以来ずっと僕は、
「神さま、お好きなようにしてください。僕たちを、お好きなように使ってください」
とお願いしてきた。
最近はお願いをすることもない。
何をしたらいいか、方向がわかってきた。
いつかふたたび地球に大きな春が来て、氷が解けてくれる。二百五十年くらい後から、少しずつ、いのちとからだとこころの、長い冬が終わっていく。
まだ、やることがある。
今のうちに出来ることがある。
出来る、と本気で思っているあたり、僕はまだ青い。
〈シャマン術国際協会〉のメンバーたちが毎日やっているという、
「シャマン術 みっつのベース」って何だろう?
〈ちのみち〉〈たなすえ〉〈おまじない〉とは、何を、どうやるのか?
ぜひ、自分でやってみてほしい。
みっつとも、自己流で工夫できる、自然な術だ。
よろしければ僕のワークショップにも来てほしい。
僕をワークショップに呼んでほしい。
そのまえにまず、自己流でやってみてほしい。
〈ちのみち〉〈たなすえ〉〈おまじない〉は、メンバーの国籍も年齢も問わないし、文化背景も問わない、宗教環境も問わない、性的嗜好も問わない、知識も経験も財産も問わない。
人類だれにでも、シンプルに、効く心身術だ。
すぐできる。どこでもできる。すぐに効く。
「素晴らしい」「よく効く」「生活が好転した」
そういった報告が、海外からも相次いでいる。
「なるほど、効くのは、あたりまえ」
と誰にでもわかる。
いのちが喜ぶ。好循環が生まれる。
やさしく出来て、すぐ身について、身ずから納得できるところがいい。
ものものしく厳かにメッキをつけたり(箔などつけたり)する必要がまったくないところもいい。
いやな副作用もない。
まるで宗教みたいじゃん、と感じる方にお伝えしたい。
「シャマン術 みっつのベース」は、文化人類学的観点・宗教学的観点からすると、ズバリ世界のいろんな宗教で用いられていた心身術です。
こういうせっかくの術が、宗教に占有されていたのでは、どこかムダ遣いだという気がする。「シャマン術 みっつのベース」は、宗教ではない。
宗教からきりはなして、人間だれもが楽しみ活かせる術を扱っている。人それぞれ、自分が何を信じていることにしようと、かまわないのだ。何が身についているか、いざというときは、そこで決まる。
誰だって、この世のなかの、喜びを増やして、苦しみを減らしたいのではないか?
詰まって固まっているところを柔らかく流れるようにし、足りなくなっているところを充たしたいのではないか?
だから、みっつの心身術は、かつてこの国でおおいに栄え、しかも効目を発揮してきたのだ。
僕のねがいを、わかってもらえるだろうか。世界がいま、どういうことになっているか、わかってもらえるだろうか。世界を少しでもよい方向へもっていくために、今日、明日、とりあえず何が必要か、わかってもらえるだろうか。僕が早速、たくさんの同志たちと出会えたのはなぜか、わかってもらえるだろうか。
〈おまじない〉には「つながるの法則」があるのだ。
同じ性質をもっている現象、同じ潜在意識を持っている者、同じヴィジョンを抱いているこころは、お互いにつながってしまうのだ。
こういうことを話していると、日本に住んでいる日本人の、一般的な現実常識からはぐれてゆくかもしれない……ということは、同じ日本人としてよくわかる。
僕がしてきた旅の話は、誰が聴いても、まさに夢みたいな、不思議な話に聞こえるだろう。この4年間ほど、まるで、現実の事実のほうが、鮮烈な夢みたいな日々だった。
眠っているあいだに体験した夢に導かれ、たくさんの人たちが行動を起こした。直感で僕を自国へ招いてくれた人もいる。夢に導かれて国外まで会いにきてくれて、僕をアフリカのシャマンに紹介してくれた友人もいる。夢に導かれてワークショップにやってきて感動し、そのままシャマン術国際協会のメンバーになってしまった人もいる。
こうした潜在意識のネットワークについては、量子物理学者のほうが詳しいのだろう。
決して当たり前とはいえない不思議な出会いや出来事が続いていく。量子物理学に詳しくない僕としては、不思議を不思議として受け取るしかない。
あやしがられるのを承知で言えば、超常現象なんて呼ばれるたぐいの出来事にも、日常的にだいぶ馴染んできた。
超人も、常人も、超常も、日常も、基本的にはたいして変わりがない。人にこころをかけ、人に手当をし、念入りに何かを仕上げるこころの動きは、それだけでもう超能力だ。
「超」を売りモノに片寄った商売をして不幸になるつもりもない。
いのちを復興する芸術活動は、みんな超能力だ。
よくわからない不思議に慣れていくにつれて喜ばしい。
リーダーがいない、メンバー全員が主人公の、不思議な国際コミュニティ活動。〈シャマン術国際協会〉では、すでに国を超えてたくさんの人たちが出会い、民間の国際交流を始めた。
僕がもし明日死んだとしても、この活動は継続されていく。
そやかてまだ死にとうない。
まだできることはたくさんあるので、しばらくは生きていたいと思う。
いよいよ、これから、どうにかできるという気がしている。
こういうのは大きな話に聞こえるかもしれないけど、僕が毎日、ちいさな空間で続けている「シャマン術 みっつのベース」は、とてもささやかなことだ。
各自のささやかな習慣こそが、その人の、ひいては世のなかみんなの、今と明日を育てていくのだという気がしている。
自分てなんだろう。他の誰とも違う、自分て一体なんだろう。昨日も、明日も、変わらない、自分でしかないこの自分てなんだろう。
世のなかの自分というのは、身につけ心得た習慣と、あとは基本的な自分像・世界像だと思う。
そのほかのところは、からだの仕組も、こころの仕組も、他の人たちと大差ないし、環境や状況に応じてどんどん変わるところを「自分」と言えるのかどうなのか。
身についた習慣と、毎日くりかえしてパターン化している自己像・世界像、それが世のなかで生きて持続している自分だ。
生き物として一人でどんなにイケてる人でも、恋人とふたりでイキまくりの人でも、世のなかでイケてるかどうかはまた別だ。世のなかの自分というのは、身につけ心得た習慣と、あとは基本的な自己像・世界像だ。
自己像・世界像は、言葉によってコントロールされている。
言葉を大切にコントロールすることで、自分は、世界は変わっていく。
からだのうちからいのちで動く〈ちのみち〉。
いのちにふれていのちを感じる〈たなすえ〉。
世のなかのいのちをたのしむ〈おまじない〉。
毎日の生活のなかで、心身術を、楽しんでいく。
自分と世界を変えようと、ムキになって頑張る必要はない。
まずはここから、いちばん楽なやりかたで、末広がりに良くなっていく。
飯田茂実
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