伝えるということについて考えている。
どうやって、誰に、何を。
舞台で、誰でも、コミットできるものを。
表現は自分の意識で表現だ、って思うけど、もっとでかい、あふれ出してくるもの、みんながもっているもの。
伝わるだろうか、取りこぼしてはいないだろうか。
ある写真家の作品を見て皆で議論する、という企画で、「社会性」ってなんだろう、という話になった。
いきなり堅い話。
むずかしいね、よくわからないよ、
じゃあ「社会性」をもっていないものって例えばなんだろう?
自分がそこに参加できないもの、私を除外しようとするものを「社会的」なものと言えるのか?
インテリゲンチャ達が専門用語でわーわー議論していても、そのテーマが何であれ、私はその場にいられるかな?
さみしい思いをする人はいないかな?
かっこいいデザインは皆を包んでくれるかな?
現代アートは冷たいって言っていたジョン・レノンがオノ・ヨーコの、天井に小さく書かれた「Yes」という文字をみて初めて暖かい現代アートに触れたと言ったって。
包んでくれるもの、拒絶しないもの。
一人一人受け止め方はきっと違う。
押し付けがましいメッセージではない、認める、許す、包む。
ごめんね、ありがとうね、and I love you.
遠くの世界のことではない、全てが地続きで、歩けばぶつかる世界に生きている。
どうやって、誰に、何を伝えるのか。
その伝え方。
これが何らかの表明文で意見、メッセージである限り、それからあぶれてしまう人がいるのだろうか。
どうしたら伝えられるか、舞台の上では裸です。はじめ、飯田さんに「舞台は表現なんかじゃない」と言われたときは、ショックで、その意味が分からなかったけれど。伝えたいこと以外だってあふれ出てしまう。表現しようと思ってないものがあふれ出す。
その姿勢。どうやって伝えるか。どうやって生きるか。
舞台だけじゃなくて、HPも大学の論文もチラシも展覧会も会話もデモもプレゼンも。
どうやって、誰に、何を。
そしてそれは何のために。
根本を照らしてゆこう。
大切なものがだんだんみえてくる。
どうやって生きていこう。
伊藤照手
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