僕はドキュメンタリー・フィクションというジャンルにかまけている。
現実社会と、それぞれの夢が、地続きに混じり合うような創造ごと。大勢で全身全霊まるごと、こういう舞台を創ると、ドキュメンタリー・ダンス・シアターと呼ばれるようなものになる。
記録ダンス劇。
まず、合意的日常世界がある。それぞれの出演者が共有している現実がある。
そうしてこころの現実がある。これがアニメ、漫画、小説など、フィクション(虚構)というかたちをとることもある。こころの現実から、物語や、歌が生まれる。ふだんはっきりと目には見えにくいけれど切実なこと。
本当のフィクションはみな、人のこころの奥現実から生まれてくる。
現実の社会と、各々の抱くフィクションは、いつも地続きになっている。
ドキュメンタリー・フィクションの舞台創りでは、それぞれの出演者が大切になる。
それぞれの出演者の特性・持ち味が大切になる。
それぞれの人の、感受特性、運動特性、腰椎の様態などを把握できないまま、舞台創作を指揮するのは無茶だと思う。それぞれのからだとこころがわからないと、こういう創作は始めることさえできない。
出演する人全員が主人公となり、それぞれの役割を担う。出発点には振付もなく、台本もない。創作法の 構想があるだけで、今回のようにタイトルさえなかったこともある。
まず、一緒に体を動かしたり、手当しあったり、話し合ったり、いろいろなことを試してみる。
しばらく経つと、どこまでいけるか、限られた創作期間中に、出演者たちと、どこまで到達できるか、全体像=ヴィジョンが見えてくる。そのヴィジョンをたしかめながら、出演者の人間味をそこなうようなものを捨て、出演者の人間味がにじみでるような方向へと、リメイクを続けていく。
演じる必要があるときは、演じる。何ごとかをどうしても語る必要があれば、台本も創る。踊る必要があれば、振付もする。あくまで、それぞれの人間性がはっきりにじみでてくるように、お客さんとこころが通いあうように、かたちをはっきりさせていく。
それぞれの役割が、だんだんはっきりしてきて、ひとつの社会モデルみたいなものが生まれてくる。
監督係は、出演者から美しいことが滲みでてくると、それをかたちに定着させようと工夫を続け、それがさらにわかりやすい・はっきりした形になるよう工夫を続ける。ほぼ、それだけのことに全力をついやす。出演者たちを感じ続け、かたちを探り続ける。直感に頼ることが多い。粘り強くじっくりとリメイクの工夫を続けるほどに、舞台は良質なものになっていく。
出演者たちによる体を張っての稽古時間と、一人でリメイク案を練る構想時間と、創作期間中は、どれだけ時間があっても足りない。限界がないことをしているので、ほとんど行けるかぎり「ここがマックス、これ以上はムリ」という、各自のさいはてをさまよい続けることになる。全員の創造力がピークに達する。徹夜が続くこともあり、疲労もピークに達する。ほとんど超能力かと思うほどの潜在力が、土壇場で溢れ出てくることもある。
創作中、出演者たちはこころの嵐を体験する。監督係としても、なるべく嵐が小さくて済むように工夫するけれど、多少の嵐は、舞台創りなので、やむをえない。
現在、記録映像の三浦くんが『春風のなか、ちいさな街』仙台の映像を国外向けに編集している。想いのこもったDVDを創っている。8月に僕は、出来あがったDVDをトランクへ入れて、ふたたび一人で世界ツアーを始める。
三浦くんは、公演前後の出演者の様子も撮っている。
このドキュメンタリー映像を、さらにフィクション化して、架空のシーンを撮り、ドキュメンタリー・フィクション映画作品を創りたいという気持が湧きおこってくる。
敬愛する照明家の吉本有輝子さんから、
「飯田くんの舞台は、メタ・メタ・フィクションです」
と言われたことがある。超・超・夢幻劇ということだろうか。
僕は、ややあやういことかもしれないけれど、現実と夢の世界が地続きだ。もともと、空想にふけることもないし、かなり現実的でクールなたちだと思うのだけれど、自分たちが魂の奥に共有しているヴィジョンに注目して、そこにかまけているうちに、自動的に現実と夢が地続きになっていってしまうらしい。芸術活動は、人びとが分かち持っている幻を活用して、注目しにくいけれど大切な現実を、生きたかたちに濃縮し、いろんなことを好循環へと転換していく装置みたいなことだ。
もし『春風のなか、ちいさな街』のドキュメント映画にフィクションを足すのであれば、明らかにフィクションンとわかるささやかなシーンをみっつほど入れたいと思う。
そのうちのひとつを、ブログ記録(ドキュメンタリー)のうちの空想物語(フィクション)として、ここに書いておく。
これもまたドキュメンタリー・フィクションのうちだろうか。
公演ツアーを終えた直後のある晩。
学生アパートの一室。
窓際に、洗った衣装が干してある。
出演者のうち二人(任意)が話をしている。
ふたりは、お互いの恋人について話しているらしい。
ふたりとも、長いあいだ、恋人と過ごす時間を取れなかった様子。
ふたりの話題が、終わったばかりの公演に及ぶ。
「まだ言葉ではうまく言えないよね」
「うん」
「たくさん泣いたし」
「なんか、からっぽになった感じ」
「でも終わってないんだよね」
「ずっと続いているんだよね」
「これからレポートもあるし。来月にはテストも……」
被災地とか、放射能、という言葉は出ない。
ぽつり、ぽつりと、そんな会話があってから、ふたりは、黙り込んでしまう。
しばらく沈黙が続く。
どちらともなくと、ふたりは身を寄せあう。
ふたりは抱き合い、横たわる。
ぴったりと抱きあうけれど、それ以上何もしない。
抱き合って、じっと眼を閉じている。
そもそも性活動をしたくて、そうなっているのではない様子だ。
こういうふうにしてしか、たしかめられないようなことを、共有しているのだろうか。
「あんなこと、よくやったよね」
「ほんと、いろいろあったね。……これからだよね」
会話はそれだけ。
ふいに、地震が、くる。
一方が一方に、こころなしか、しがみつく。
ふたりとも、黙っている。
やがて、地震が、おさまる。
ふたりは仰向けになる。ふたりとも、黙っている。
黙って手をつなぎ、うえのほうを見ている。
こんな二人が実際に、出演者のなかにいたかも、というような気もする。
そういえば、創作中は、毎日のように地震に襲われていた。
飯田茂実
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