一週間ぶりに創作稽古のない日。その休日の夜が明けた。
制作チーム(コンポンテラリアート部)は各々、他県での公演/ワークショップ準備などに向けて、てんやわんやだった様子。美術ヘルパーに入ってくれた伊藤文恵ちゃんは、「下地作り」や装飾に手間をかけてくれた。
8月7日に福島市でのワークショップが決まり、その時まで東北滞在を延ばすことになった。
コーディネイタ―の澤野くんに相談をして、メンバー全員に次のメールを送る。
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昨日から今日にかけて、熱・関節痛・喉鼻の炎症などが起きた方は、明日25日、思いきって体を休めましょう。炎症を起こした後で体を休めておくと、体が大きくバランスを取り直します。意志によるヴァージョン・アップでなく、自然の大きなヴァージョン・アップが体に起こります。
腕の化膿活点のマッサージをして、目・額、首の付け根・胸・お腹、股関節、脚の付け根など、からだのあちこちに、ほんわかと愉気しておきましょう。過労気味のとき、ぼんやりと愉気すると、心地よいものです。
ラスト・スパートの8日間に向けて、全員、緩められるときに、体を緩めておきましょう。
明日の創作稽古は、昨日今日、体調のよかった人のみの参加としましょう。7時から10時まで、作品についての話し合いと、細かなリメイクをしましょう。こちらから作品の奥行きをたしかめるような話もしたいと思います。
5時から稽古場が空いているので、早入りして自分の行為をチェックする人は、7時前にどうぞ。
制作部(コンポンテラリーアート部)はてんやわんやです。事務作業中の、目の疲れぬき・目の愉気をお忘れなく。
八戸のような被災地も含め、ツアー先の各県で、そして関東で、海外で、いろんな方たちが今回の公演ツアーを応援してくれています。あちこちで話し合いが持たれ、時にはこちらのことをほとんど知らないままに、支援協力してくれています。感謝するゆとりのあるときは、こころのうちで御礼を言っておきましょう。
飯田茂実より
PS 菅くんのみは今回の役割も含め、本番中にふらふらでも大丈夫なようなので、コクかとは思いますが、休みなしでいきましょう。菅くんはさらに、全力でコンポン稽古をやりきってから、本番を迎えてもらいます。ぜひ、このまま最後まで運び抜いてください。
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最後のPSが、鬼です。
出演者の姿にどんなに感動していても、監督係は感動のなかに留まっているわけにいかない。「もっと流れのよいやり方があるのでは」と絶えず工夫をこらし続ける鬼です。菅くんに対しては、本人が求めていることでもあって、舞台創りについては、やむを得ず鬼。
菅くんは、この休日、石巻の被災地へ行ってヴォランティア・ワークをしていた様子。
六月の始めから、東北の若いメンバーたちと舞台の共同創作を進めてきた。仙台初演まであと一週間。もっとも創作メンバーは、東北の人たちだけではない。おおかたは、東北の人たちだけれど、中部の諏訪から出てきた僕と、関東から出てきた二人、新潟から出てきた二人と、東日本の田舎者たちも混じっている。
創作のなかで、青森出身の藤田翔は、劇場で起こることをまっすぐにする、エネルギーの良循環みたいなことを担当。地元の仙台出身メンバーのうち出演者の3人、小濱昭博、坂下真由理、村岡佳奈は、それぞれの立場で、作品のテーマを牽引していくような係。秋田県美郷町から出てきた原・東北人そのものな感じの澤野正樹は、伊藤照手とともに、制作面でも、出演者としても、ドラマトゥルギーの運び手みたいなことをしている。やはり東北人そのものの顔をした岩手県出身のダンサー千葉瑠依子は、口ではうまく言えないような不思議なことをしている。藤周さんの文学によって日本人みんなの心の故里みたいになりつつある、あの山形県鶴岡出身の高橋幸介は、不自由な立場のなかで人びとの幸を願って人を援け続ける「奉仕者」みたいなことをしている。やはり山形から来た菅朗は、生命力全開でみんなのために働いている当事者で、言葉数も、必要に応じて最小限になってきた。東京の田舎街から出てきた長谷川あいも、この「ちいさな街」のなかで、誰にも替えられない大切な役割を果たしている。
それからメンバーのなかには、僕たちの御先祖さんたちというか、おじいちゃんみたいな役割をしている人がいる。この一年、自分を変えようとして、居合を始めたり何かすごい修行を続けてきたらしく、今どきの若い日本人離れしたその雰囲気は、ほとんど安土桃山時代。どういう振付をほどこせばいいというのか。この本田諒と、監督係の僕とは、人びとが森のいわふねを護っていた古来から、塩の道~黒曜石の道で繋がる、御近所産らしいです。
この三週間、深夜から日中まで一人で、作品をより良くリメイクする遣り方をさぐっている。何を引けばいいか。何を足せばいいか。何度も客観的にシュミレーションしてみる。やはり声を出したり体を動かしたり、体感でたしかめてみて、ようやく良案が出る。構想をゼロに戻しては探っているうちに、構成、振付、語り、美術、衣装、照明、音といったことのうち、三十分にひとつくらいは必ず「おお。これだ。これに違いない」という良案が出る。けれどその案がいけるかどうか想い浮かべているうちに、また涙が止まらなくなってしまう。多いときは一日に六時間くらいは泣いているのではないかと思う。
哀しい時に泣く。これがどうやら体にも心にもいいらしいと、改めて気づいた。僕は日頃から活元ダンスとか愉気をしている。そうやって自分の体や潜在意識にいつも意を向けていると、考えなんかをはみだして、体感が、最良の案を教えてくれることが多い。
昨年から、中米、中東、ヨーロッパ、アフリカ、アジアとツアーをして、仙台へ戻ってきた。行く先々でダンスの公演をしながら、伝統的な心身の術を伝え、学びとり、身につける、武者修行みたいな旅だった。この世界のひどい矛盾や悲惨のなかで苦しんでいる人たちと出会った。都市のダンス・スタジオや芸術学校を始め、スラム街や孤児院、医師のいない山奥の村や小さな島、いろんな場所で、日本古来の療術を伝えた。整体操法で、胸椎四番~六番あたりの緊張を緩めると、ほとんどの人がその場で泣きだした。背骨がこわばってしまい、哀しみが「胸につかえて」しまっていたのだろう。
そのうち、自分の体がおかしくなってきた。どうにも緊張が抜けないまま、胸椎の四番~六番が固くなってしまった。
行く先々で出会った人たちが、心の移民みたいに、心のなかに住み始めてしまった。紛争が続いている土地の人びと。体がこわばり心を病んでいる大都会の人びと。伝統文化を急速に破壊されて、心のよるべを失い始めた人びと。……痛くて眠れないくらい、胸と背中が痛くなった。
その痛みが、消えてしまった。海外から仙台へ戻ってきて、毎日の創作準備をしているあいだじゅう、六時間ほど、ほとんどぶっつづけに泣いていたら、ある日、ふっと消えていた。そしてなんということだ。いきなり元気が出た。勇気が生まれた。
「腹ぁ立ったときゃあ、地団太踏んだら、すっとするもんだで。」
と祖母は言っていた。
思いきり地団太踏むと、胸椎の七・八・九番あたりが緩んで、体から怒りが抜けていく。この辺りがこわばると体は一杯いっぱいになってしまって、癌・鬱病・糖尿病など、自己免疫性の疾患で、バランスを取ろうとしてしまう。やはり地団太踏んだほうがいいのだ。
「つれえときゃあ、うんと泣いたらいいだ。
泣いたら胸のつっけえが取れるでなあ」
やはりおばあちゃんが言っていたとおりだった。泣いていたらよかったのだ。
一人でいるときさえも絶対に泣いてはいけないと心に決めていたらしい父が、だいぶ歳をとったある日、いきなり号泣を始めたときのことは忘れられない。父は心臓を病んで長く入院生活をした。
父を失ったあと僕は、泣けて困った。家族のために父がじっと堪えていてくれたぶんまで涙が出てくるような感じだった。
信州諏訪で生まれた諏訪人として、僕は、諏訪人たちが昔から大切にしてきた心の伝統が滅びることのないように心をかけている。
今、故里から、かつての姿は消えつつある。田んぼがつぶされて、ドラッグストアなどでかいチェーン店が立ち並び、小さな店がつぶれ、駅前がさびれて、農薬で土壌も川も湖も汚れ、里の昆虫たちは姿を消した。育ててくれた祖母も父母も亡くなった。
それでも子どものころに遊んだ森は、まだかつての姿を保っている。父が牽引した「再自然化=リナチュラリゼイション」の市民活動を経て、諏訪の湖はかつての自然な姿を取り戻しつつある。育ててもらったこと、いろいろ教えてもらったことはもとより、故里にきれいな湖を回復してくれた父に、僕は毎日感謝している。
伝統は人から人へ伝えてゆくほかない。伝える人がいなくなったら伝統は滅びる。諏訪の祖先の方々、師匠の方々にありがとうを言いながら、諏訪人にふさわしい生き方を身ずからするしかないなと、いつも思っている。
慰霊、鎮魂という言葉が残っている。おこなったほうが望ましいこととして残っている。身ずから、慰霊、鎮魂の心もちで生きる人がいるかぎり、この大切な伝統は残り続けると思う。
東北のこちらの沿岸で暮らしてきた人たちみんな、溜まりに溜まった哀しみを抱えているように感じて、何かというと泣けてきてしまう。創作のあいだこらえていても、部屋で一人になると、どっと出る。
みんな泣くのをこらえて溜めこむよりは、ひとりで、あるいは一緒に、泣いたほうがいい。そのほうが心も体も丈夫になるし、人とも心が通いあっていくような気がしている。
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